どくしょのじかん 2

 私はハーバード、コロンビア両大学で学び、プリンストン大学で教えた経験がある。レポートを書いて採点されたこともあれば、採点したこともあった。採点する時は、まず末尾の脚注(フットノート)を点検するの慣例だろう。引用文献の数、参照した文献の質、必須文献で洩れたものはないか、本当に読んだのか疑わしいときは抜き取ってチェックする、といった手順を踏む。
 その段階で重大な手落ちが見つかれば、内容を読む前にE(落第点)をつける教授もいよう。


秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』、1999年 新潮選書、265ページ 


さすが秦先生だ。途中、理解不明な部分もあるが、概ね同意する。学問の道は厳しいのだ。というわけで、わたしも『慰安婦と戦場の性』を読むために、まず引用文献に当っている。しかし、少し気になることが・・・

ビルマ戦線で有名なのは、雲南省の拉孟(ルビ、らもう)、騰越の玉砕戦に巻き込まれた慰安婦だが、捕虜になって生き残ったわずかな兵士の証言と米軍の尋問記録しか手がかりがないため、実情ははっきりしない。

(略)

玉砕後にビルマの兵士たちの間に、さまざまな噂が広がり、半ば伝説化したエピソードが語りつがれることになる。「日本人慰安婦は、朝鮮人慰安婦へあなたたちは何も義理立てすることないのよ、と説いて投降させたのち全員自決した(2)とか、「拉孟では手榴弾や毒薬で慰安婦たちを殺した(3)」というたぐいである。

だが、実際には彼女たちの大半は捕虜となって生き残ったようである。(本段落以下略)

(略)

つまり四十数人の慰安婦のうち、二十人前後が死んだらしいということになるが、(本段落以下略)


40数人中、20人前後、約40〜50%という高い死亡率は、とてもではないが「大半は捕虜となって生き残ったようである」と言えるものではないと思うんですが、どうでしょうか?

(つづき)

両地点の陥落から二ヶ月後の『CBIラウンドアップ』という米軍の陣中新聞には、捕虜となった十人の慰安婦たちに面接したUPのランドル記者による報道記事がある。インタビューに応じた五人のうち一人は三十五歳ぐらいの監督役らしい日本人だが、四人の朝鮮人女性(二十四−二十七歳)は四十二年六月、朝鮮を出てビルマへ来た、動機はカネである、仲間は二十四人いたが、十四人は砲火で殺された。などと、もらった米国製シガレットをくゆらせつつ身の上話を語った(5)。おそらく騰越からの脱出組かと思われる。


(2) 千田夏光 『従軍慰安婦』続編、十八ページ、出所は萩尾軍医手記。
(3) 太田毅 『拉孟』(昭和出版、一九八四)、二七一ページで「そんな事実はない」と否定している。
(5) CBI Round Up Nov.30,1994,"JAP'Comfort Girls" by Walter Rundle. (引用者注−英文表記およびスペースは原文ママ


秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』、1999年 新潮選書、123〜124ページおよび127ページ (強調は引用者による) 


"CBI Round UP"の記事の複製がウェブで見られます。原文をあげて、試訳をしてみたので、読んでみてください。

CBI Roundup - November 30, 1944

JAP 'COMFORT GIRLS'

日本軍の「慰安娘たち」


SALWEEN FRONT (UP) - Chinese troops mopping up among the japanese fortifications on the salween Front, recently captured 10 Japanese and Korean women who had lived with the enemy troops throughout three months of shattering artillery bombardment and desperate close-in fighting that fully reduced Sungshan Mountain.

The Japanese had shipped a supply of women to the forward fortresses at Sungshan and other large garrisons on the Salween Front. American liaison officers in action with the Chinese troops were inclined to doubt their own eyes when they first encountered this evidence of Japanese ruthlessness at Tengchung, where they found one Korean girl buried alive in a Japanese ammunition dump as a result of a nearby bomb burst.


サルウィン前線(UP)−サルウィン前線にある日本軍の砦を掃討していた中国軍が、先日、日本人女性と韓国人女性、計10名を捕捉したが、彼女たちは、松山の形をまるで変えてしまったほどの強烈な砲撃と必死の接近戦が続いた3ヶ月の間ずっと敵軍と行動を共にしていたのである。

旧日本軍は、松山の各砦やサルウィン前線ある人数の多い守備隊に慰安婦を補給していた。中国軍と共に行動していたアメリカ人連絡将校たちは、騰越で日本軍の残酷さの証拠を初めて目にして、己の目を疑いたくなった。近くで爆弾が破裂した結果、日本軍の火薬庫で生き埋めになって死んだ朝鮮人の娘の遺体を、彼らは発見したのだ。


With the help of a Japanese-speaking Chinese student who had escaped from Manchuria and now is serving with the Americans, the personal story of five of the pathetic women of Sungshan was obtained. Four of them were Korean peasant girls, 24 to 27 years old. They wore Western type cotton dresses they said they's purchased in Singapore.

They sat on low stools and eagerly puffed American cigarettes as they gradually relaxed from the shock of months of bomb and shell explosions. They said that early in the spring of 1942 Japanese political officers arrived in their home village, Pingyang, Korea. With propaganda posters and speeches the Japs began a recruitment campaign for "WAC" organizations which they said were to be sent to Singapore to do noncombatant work in rear areas - running rest camps for Japanese troops, entertaining and helping in hospitals. All four said they needed money desperately. One said her father, a farmer, had injured his knee and that for the $1,500 puppet currency (about $12 US), given her when she enlisted, his doctor bills were paid.

A party of 18 such girls sailed from Korea in June, 1942. Enroute they said they were fed stories of Japanese victories and of a new empire being created in Southeast Asia. They said they first became worried when they were shipped direct through Singapore and that when they were placed on a train headed north from Rangoon they became certain of their fate.


満州から逃亡し、現在はアメリカ軍に従軍している中国人が日本語を話せるので、彼の助けを借りて、松山の可哀そうな女性5名にこれまでの話を聞くことができた。4人は朝鮮の農家の娘で、24〜27歳だった。彼女たちは木綿の洋服を着ていたが、シンガポールで買ったとのことであった。

爆弾や砲弾が炸裂した数カ月のショックから徐々に解き放たれていくにつれて、彼女たちは低めの椅子に腰掛けて、アメリカ産のタバコをしきりに吹かした。彼女たちの言によれば、1942年の初春に、日本人の行政官たちが、朝鮮は、平壌にある彼女たちの故郷の村に来たとのことである。宣伝ポスターを使ったり、話をしたりして、その日本人たちは "WAC"*1 のような組織への募集活動を始めた。彼らが言うには、その隊はシンガポールに行って後方地域で、日本軍用の休憩キャンプで働いたり、病院で興行や介助をするなどの非戦闘任務につくとのことだった。4人ともが喉から手が出るほどお金が必要だったそうで、ひとりは農家を営んでいた父が膝を怪我していたので、入隊したときに貰った軍票1,500ドル(およそ12米ドル)で、治療費を払ったとのことだった。

このような娘たち18名が一団で、朝鮮を出航したのは1942年6月のことだった。航海中、娘たちは日本の勝利の話と東南アジアに打ち立てられつつある新帝国の話を飽きるほど聞かされた。娘たちが最初に変だなと思い始めたのは、シンガポールから再び船に乗せられたときだった。そして、ラングーンから北へ向かう列車に乗せられたとき、娘たちは己の運命を悟ったのであった。



When the party reached Sungshan, on the Salween Front, the four were placed under the charge of a fifth woman - a 35 year old regular Japanese prostitute who also was captured in the mopping up action.

There was a total of 24 girls at Sungshan. Among other duties, they had to wash Japanese soldiers' clothing, cook their food and clean out the caves in which they lived. They said they were paid nothing and received no mail from home.

When Chinese troops attacked Sungshan, the girls lived below ground in caves. Fourteen of the original 24 were killed by shell-fire. They said they had all been told they would be tortured if captured by the Chinese and all admitted they had believed such stories. They declined to give their correct names to protect their families but all said what they had lived through for the past two years had completely reversed their former naive trust of their Japanese overlords.


一団がサルウィン前線の松山に着いたとき、4人は第5の女性の監督下に置かれた。35歳の日本人で、娼婦であったこの女性も掃討作戦で捕捉された。

松山には、計24名の娘たちがいた。他の職務の合間に、娘たちは日本兵の衣類を洗ったり、食事を作ったり、住みかであった散兵壕の掃除をしなければならなかった。彼女たちが言うには、給料を貰ったことはなく、故郷からの手紙を受け取ったこともないそうである。

中国軍が松山を攻撃したとき、娘たちは散兵壕で地下生活をおくっていた。もともと24名いたうちの14名が砲火によって死んだ。娘たちは、中国軍に捕らわれたら、拷問されると言われていて、その話を信じていた。彼女たちは、家族を護るために本名を明かすことを拒んだが、過去2年間の生活で、統治者日本人に対する今までの無邪気な信頼は覆されたと全員が語った。


秦先生、話が違うんですけど・・・
秦先生の引用は信用できません!

彼女たちの写真

A picture of "comfort women" who were forced into sexual slavery by the Japanese military during World War II 
(U.S. House Takes Japan to Task Over Comfort Women (Digital Chosunilbo - Sep.14,2006))

参考文献

『「慰安婦」問題調査報告・1999』5(pdfファイル) ダウンロード
63〜66ページに一部訳をからめた解説あり

  • 明石DSさんの旅行記一覧 (goo 旅行)

雲南省の戦跡を訪ねて シリーズ

*1:Women's Army Corps:第二次世界大戦中のアメリカ陸軍婦人部隊