どくしょのじかん 6


(2007年8月12日 dempaxさんからの情報を加え、記事を再構成しました)

George Hicksを陥れる手口 3


どくしょのじかん 5 につづいて、ジョージ・ヒックス『性の奴隷 従軍慰安婦』に対する秦郁彦先生の批判を『慰安婦と戦場の性』から引用してみる。

また〔クマラスワミ報告書〕第21項には、ミクロネシア70人慰安婦が日本軍に虐殺されたとあるが、引用元のヒックス、ヒックスの引用元である金一勉の著書(3)(1976)のいずれにも人数は出ていないのに、忽然と〔クマラスワミ〕報告書に70人という数が出現する。


 (3)金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房、1976年)、246〜47ページ

(秦上掲書、266ページ。 〔  〕は引用者による補足、また、強調も引用者による。 漢数字は英数字で表記した。)


それでは、ヒックスの原文を抜き出して、またもや「なんちゃって」翻訳をしてみる。

ジョージ・ヒックスの原文とその翻訳

In Truk in the Caroline Islands, intensive bombardment began in February 1944, and soon most of the installations of this largest naval base in Micronesia, including its three comfort stations, had been wiped out. Some comfort station operators in the area who had close relations with the command staff cemented by bribery, had arranged to be evacuated with some of their women as the Allied offensive approached. Butabout 100 women remained when the all-out attack was launched. They took shelter in a dugout among the breadfruit trees in the hills behind the base.


カロリン諸島のトラック〔諸島〕では、1944年2月、〔米軍による〕集中爆撃が始まり、まもなく、このミクロネシア最大の海軍基地の施設は、3軒の慰安所も含めて、そのほとんどが壊滅した。この地域の慰安所楼主たちのなかには賄賂によって司令官と密接な関係を築いていた者たちがおり、連合国軍の攻撃が間近に迫ってきたため、一部の慰安婦と共に撤退する手配をした。しかし、全面攻撃が始まったときに、約100名の慰安婦が取り残されていた。彼女たちは基地の裏手の丘、パンの木々の間にあった防空壕に避難した。


A United States landing seemed imminent. In view of the losses of Japanese shipping and fuel, this could only mean gyokusai for the garrison, following those at Tarawa in Gilbert Islands, and other Pacific islands fortifications further east. It was concluded the women would be an encumbrance and an embarrassment if they were fall into American hands. It was decided to dispose of them. During a break between air raids at night, an ensign was sent to the women's dugout with two assistants. He was armed with a light machine gun. As he approached the dugout, it was so quiet he began to wonder whether it was occupied. He whistled the national anthem, the Kimigayo, to find out. At this a few women emerged; he shot them on the spot. He then continued the slaughter inside:


米軍の上陸が間近に迫ってきていたが、日本軍は輸送手段も燃料も失っていたため、残る手段は部隊の玉砕しかなかった。すでに、ギルバート諸島のタラワ〔環礁〕とその東にある島々の要塞は玉砕していた。慰安婦は足手まといになりかねず、慰安婦アメリカ軍の手に渡った場合は日本軍の恥にもなりかねないという結論から、慰安婦を処理する決定が下された。夜間、空襲が休止した間に、一人の少尉が補佐の兵士2名と共に慰安婦たちが避難していた防空壕に派遣された。少尉は軽機関銃を携行していた。少尉は防空壕に近づいたものの、あまりに静かだったため中に慰安婦がいるかどうか訝しく思い始めた。真偽を確かめるため、少尉は口笛で国家「君が代」を吹き始めた。すると、2,3名の慰安婦が出てきた。少尉は即座に慰安婦たちを撃った。そして、そのまま防空壕内の殺戮を敢行した−−

He directed sweeping automatic fire at random into the pitch-black interior of the dugout. Mingling with the ferocious, deafening reverberations of gunfire were bursts of shrill screams, followed by low moans, until the ensign eased the trigger to end his insane shooting rampage. Within the desolate dugout, the literal silence of death hovered like a frozen pall. He used his torch to examine the results. There were about seventy bodies.
Spurts of blood were sticking to the bare earthen walls like geckos; some of the women were clinging to the rough-hewn breadfruit tree supports with their necks snapped; some were heaped up, some were embracing each other, some had fallen like logs, all drenched in blood. (Kim Il Myon 1976)


少尉は防空壕内部の漆黒の闇に機銃掃射を浴びせかけた。銃火の強烈な、耳をつんざかんばかりの反響に混じって、甲高い悲鳴が起こったが、それはやがて低いうめき声に変わった。そこで初めて、少尉は引き金を緩め、狂気の乱射を終えた。人の気配が消え去った防空壕内部は、文字通りの死の静寂が棺の覆い布のように辺りを覆っていた。少尉はトーチに火を付け首尾を確かめた。 そこには、約70体の死体があった

吹き出た血が、むき出しの土の壁に、やもりのようにへばりついていた。切り出したままのパンの木の支柱にしがみついている首が折れた慰安婦の死体、折り重なった死体、抱き合ったままの死体、丸太のように転がっている死体、その全てが血まみれだった(金一勉 1976年)


(George Hicks "The Comfort Women", 1995, p.155)
(強調は引用者による。訳文中の〔  〕は引用者による補足。)


続いて、dempaxさんが『国立でむぱ研究室櫻分室』で金一勉書と西口書から当該部分を引用して、巧みにまとめておられるので、紹介させていただく。 この引用を含むdempaxさんのエントリーは、そのタイトルのように秦郁彦先生による資料捏造「引用」について非常にわかりやすくまとめられており、必読。  dempaxさん、ありがとうございます。

金一勉書の原文

トラック島・慰安婦の抹殺措置(p.244-248)


大根拠地の大きな慰安所のボスたちは,賄賂で結託した基地の主計将校と絶えず連絡をとっていた. かれらの賄賂には三種類の狙いがあった. (1)有利な条件を得るため (2)安価な軍物資を貰い受けるため (3)最悪の状態に備えて情報を得るため,つまりいちはやく逃げ帰るためである. ことに前線では,ただ事ならぬ事態が起こりつつあるだけに,なおさら賄賂は緊要なものとなった. しかし彼らは緊迫する戦況については,オクビにも出そうとしない.


アメリカ軍がマーシャル群島に大空襲を行い,マキン・タラワ両島の玉砕(1943年11月25日),クェゼリン・ルオット両島の玉砕(1944年2月4日)という切迫した危機が迫ったとき,トラック島のピー屋のオヤジは毎日,頻繁に基地の主計本部や司令部へお百度を踏んだという. 日本内地へ送り帰してくれと哀願するためである. うす穢ない根性の彼らは,つい先日までは「軍要員」の腕章をつけて,女たちの前で"愛国"をぶって,これみよがしに振舞ってきて,今度は"非戦闘員"だから日本へ返してくれと催促したのだ. 戦争と兵隊に売春をぶっつけて金儲けに血眼になっていた彼らは生命の危機に対しては極めて敏感であり,卑怯なほど小心翼々と立ち廻った. しかし,太平洋の島々の軍は,彼らの要求どおりに送り帰すはずもなく,次のように繰返したという. <わざわざ運び返すような閑な船が軍にはないというんだ. 女どもには親方のお前から,いざというときの覚悟をよく申し渡しておけ--潔く玉砕するンだ. たかが女郎じゃないか>と.


なかば軍の嚇かし,なかば本音であろう. そこでピー屋のオヤジの猛烈な賄賂の効き目もあって,周辺の情勢が切迫する前に,一部のオヤジと慰安婦だけが,強引に割当てられた輸送船と輸送航空母艦の船底にもぐりこんで引揚げることができた. その第一陣は『朝日丸』で帰国した(昭和18年12月). それは将校用の何軒かの女郎屋のオヤジと抱えの慰安婦であった. つまり,この基地でも普段,主計将校らに賄賂の出し足りなかった女郎屋だけが取り残されたのだ.(しかし,乗船した連中の一部は途中のサイパンに下船させられ,のちに玉砕の巻添えを喰った.)


壊滅的な大空襲が続き,眼玉の青い米兵が上陸すると聞いた日本人慰安婦たちは「うちら,カミソリで咽喉切って死んでしもたる」とつぶやき,ある女はシュミーズ姿で泣き崩れて「バカ,おトウさんのバカー,うちらだまして,こんな所へつれて来たりして」と慰安所のオヤジを口汚く罵った. おなじ慰安婦でも,朝鮮から騙されてきた女たちには,こんな泣き喚きすら洩らせなかったであろう.


トラック島は,アメリカ側では"日本の真珠湾"とか"太平洋のジブラルタル"と呼んだほど日本海軍の太平洋最大の根拠地である. この基地の安全確保をはかるために,開戦直後に日本軍はラバウルまで進んだ. ラバウルをめぐるソロモン海戦(消耗戦)も結局はトラック根拠地を守るためのものだった. トラックは大根拠地だけに,料理屋,慰安所が軒をならべ,第四艦隊の将兵は女体のサービスにひたりきっていた.


そして2月17日午前5時前,米軍機第一次70機がトラックに殺到した. 米軍の爆撃は九波におよび,延べ450機,トラック基地は早朝から夕方まで火と煙に包まれた. 翌2月18日,米機はトラック港上空を乱舞し,逃げまどう艦船をシラミつぶしに沈めた. 二日間の空襲で撃墜された日本機は約300機,ほとんどの艦船は撃破され,貯蔵食料2000トンと1万7000トンの燃料を詰めたタンク3個が炎上し,陸上だけで約600人が死傷した. トラックに近接中の輸送船団は1200人と共に海没した. トラック空襲と同時に,同島の東方にあるエニウエトク島(守備兵力3980)が艦砲射撃を受け,20日米軍が上陸,生存者34人を残して全滅した.


トラック島の天地を轟かす大空襲が始まると,慰安婦たちは裏山のパンの樹の茂みに掘られた防空壕に逃げ込んだ. だが,慰安婦のボスは,賄賂用の紙幣束を抱えて,かなり離れた滑走路へ向けて走りだしたという. そこにはいつでも離陸できるよう爆音を立てた逃走用の中型軍用機が一機,待機していたからである. 嘘八百で女を集めて"お国のため"ぶった女郎屋のオヤジという存在は,臆病にして狐のようにすばやく,根性が汚い. サイレンが鳴りだすと,自分だけは助かろうと必死になって飛行場へかけだし,そこが駄目だと知ると「あ,わしはここで死ぬのか,ああ,あ」と嘆声をあげ,さらに脱走の船を求めて軍港の方へ駆け出す有様である.


2月17日,18日は間断なく猛爆が繰返されたあとに,ついに島全体が炎に包まれた. 空も海も照明弾で青白く輝き,飛行場も要塞も高射砲陣地も,椰子とパンの巨木さえも,すさまじい轟音と共に吹っとび,すべてが燃え上がった. 施設の大半は灰燼に帰した.


慰安所の第一南月寮,第二南月寮,第三南月寮,これらの三軒が薄赤い夜空を背景に,なにか妖花の花の踊りのように炎上した. 女たちは避難防空壕にもぐりこんでいた. 防空壕は現地人を使って掘った,洞穴に近い粗末な構築物だが,100人ほどの女を収容できるほどの大がかりなものだった.


おなじく残存司令部とその兵隊は,辛うじて地下深くの防空壕の中にひそんで芋虫のように生きていた. このとき,軍の参謀と若い将校たちは,慰安婦らを足手まといと考えたらしい. こんどはトラック島が死戦場→玉砕の番と判断したからである. そして女たちを抹消する手段を講じたのだ. このときの模様を,トラック島の慰安婦について詳しく触れている西口克己の『廓』は,次のように描いている.


 ---引用者注:以下,原文では西口『廓』からの引用部分二文字字下げ---


「その空襲の途切れた合い間に,密命を受けた志田少尉は二名の兵をつれて,女たちの入った洞穴へ近づいていく. <いいか,問答無用だ. 決して言葉をかけてはならんぞ. 黙って始末するんだ. あいつらは素人娘ではなくて商売女だ. 敵が上陸してきたら何をするか知れたものではない---国辱だ. わかったな>


緊張した少尉のささやき声に,二名の兵士は無言でうなずいた. 靴音を忍ばせて壕の入口に接近した少尉は,もう一度軽機をかまえ直した後,するどく笛[笛→西口『廓』では口笛]を吹いた. 壕の内部に果たして女たちがいるかいなか確かめるためだった. 壕はしーんとしていた. つづいてもう一度,今度は低く,君が代を吹いた. 突然,それまで何の反応もなかった壕の中から,獣の悲鳴にも似た異様なすすり泣きが一せいにわき起こったかとおもうと,暗闇にもそれと判る防空頭巾を被った5,6人の女たちがバラバラと取り乱した姿で入口からとび出してきた. ダダダダ,ダダ--間髪を入れず,少尉の軽機が火を噴いた. ほとんど叫び声を上げる暇もなく,女たちはキリキリと体をもむような姿勢で,地面へぶっ倒れてしまった. 同時に,少尉も兵も,猛烈な勢いで壕の入口へ突進し,次の女が飛び出してくる前に,真暗な洞穴の内部へ向けて,盲滅法な機銃掃射を加えていた. 洞穴に反響して耳を聾するばかりの凄まじい銃弾の響きにまじって,とぎれとぎれの鋭い悲鳴や,うめき声がしばらくつづき,やがて気狂いのように撃ちまくっていた少尉がようやく引き金を止めたとき--ガランとした壕の内部には……文字どおり死の沈黙がしーんと凍りついたように立ちこめていた.


それでももだ用心深く,ものの2,3分間もジッときき耳を立てていた少尉は,このときになって初めて用意していた懐中電灯で素早く壕の内部を照らし出してみた.……露出した土壁にヤモリのようにへばりついて血しぶきを上げている女,荒削りのパンの木の支柱にすがりついたままガックリと首を折っている女,やや離れて一かたまりの肉布団のように折り重なって死んでいる女,抱き合ったまま死んでいる女,丸太ン棒のように転がっている女--およそざっと照らしただけでも, 6,70人もの女たちが完全に事切れて血まみれの姿で死んでいた. しかも,ふと少尉が気づいたことには,それらのすでに死骸となった女の何人かの片手に顔剃り用のカミソリがしっかりと握りしめられていたのだった. こうした種類の商売女にとっての唯一の武器ともいうべきその小さなカミソリは,……あちこちに投げ出されていた. <よし,任務完了,[西口『廓』原文では,ここに,"ははは"]こんどは俺たちの死ぬ番だ,引き揚げろ>[西口『廓』原文では,ここに,"昂然と"]いい捨てて[西口『廓』では"いい捨てた"]少尉と二名の兵士は駆け戻って行った.」


 --引用者注:西口『廓』からの引用終り--


だが,トラック島に,予期された米軍の上陸作戦はなく(同時に"玉砕"という名の悲劇もなく)素通りする形になった. トラック島の慰安婦の悲劇は,決してこの島に限ったものではない. いたるところの島の女たちが,この種の仕打ちに遭わされたのは確かである.[ここまでp.247]


トラック島から,いちはやく日本へ引揚げてきた慰安所経営のボスらは,女たちの人命は念頭に置かず自己の金銭欲から絶えず嘆いたとか. <わしはトラック島じゅうゲンくそ悪い島へ,一生かかって貯めこんだ銭を捨てに行って来たようなもンや>と. これが彼らの,よだれまじりの愚痴だったそうである.


(強調はStiffmuscleによる)


詳細に比較してみるまでもなく、ヒックスが金一勉書をもとに、この部分を記述をしたのは明らかであり、それは、ヒックスが参考文献に"Kim Il Myon 1976, Tenno no Guntai to Chosenjin Ianfu",San-ichi Shobo, Tokyo."と記していることからも確認できる。


ヒックスは「約100名」、金一勉は「約70名」

当たり前だけど、ヒックスにも金一勉にも「100名」と「70名」


どっちにも人数出てるやん。どこ見てんの?


この後、秦先生は、この話の出所を西口克己著『廓』(東邦出版社、1969年、346ページ)に求める。西口氏の父が「女郎屋」を営んでいたとか、西口自身が「市会議員(日本共産党)」だとか本題とは関係のない事実を持ち出し、殺された慰安婦は「著者の父親らしき人物が内地からつれていった慰安婦朝鮮人?)ともとれなくない。」と根拠もなく推論をしたあげく、「私はこの話はフィクションと判断する。」と言い切るのである。

しかし、この判断を裏打ちする資料は、

    • 戦友会編『トラック島海軍戦記』(非売品、1983)に出ている「トラック島」で「電話交換嬢」していた方の証言と数人のトラック関係者の証言
    • 1944年7月13日に内地へ向かった氷川丸に乗っていた日赤看護婦長の証言
    • 日本郵船歴史資料館の氷川丸航海記録

など通常では入手困難なものばかりであり、

がようやく入手できるだろうと言えるくらいである。


こうした事実に反した根拠や大半の読者には確かめようのない根拠をもとに、秦先生はこう付け加える。

もっとも、金一勉はなぜか、「6、70人」の部分は引用していないので、実際にはク報告書の「起草者」は金一勉からではなく、西口の著作から直接に利用したという奇々怪々な話になってしまう。それは報告書がクマラスワミ本人ではなく、某日本人運動家によって書かれたという風評を裏付けるものかもしれない。

(秦書、267ページ、下線は引用者による。)


上で示したとおり、下線部の事実関係はデタラメである。残りの部分が言いたかっただけなのだろうか?


さらに、秦先生は、前出の日赤看護婦長の手記を根拠に、次のよう筆を進める。

あえて推測すれば、3月30日の爆撃で残存していたNとかKなどの料亭が全部やられ、かつて海軍病院を手伝ったこともある慰安婦に数人の即死者と負傷者が出た、との記事が■■日記にあるが、それが誤伝されたのかもしれない。
この種の歪曲や誤記は他にも多いので、表9−1を参照されたい。

(同書、267 〜268ページ)


<表9−1>のタイトルは「クマラスワミ報告書の問題点」なので、ヒックス書の問題点を2,3点捏造もしくは印象操作して創作、ここでは、そのことをもってクマラスワミ報告に「歪曲や誤記が他にも多い」ということがあたかも事実のように提示されることになる。
秦先生は、クマラスワミ報告書に対する反論を、英文で手紙にしたため、クマラスワミ氏に出したが、そのなかで吉田清治氏を"professional liar"と、およそ品格に欠ける表現で罵倒しているが*1


「職業的詐話師 (professional liar)」って誰のこと?

関連情報

(2007年8月10日追記)

*1:これも秦先生の捏造 詳細はどくしょのじかん 8を参照されたい