どくしょのじかん 8


追記あり、ひきつづき情報収集および編集中。まとまった段階で新エントリ作成します。)

済州島新聞の吉田清治記事』


秦郁彦著 『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)232〜233ページより引用

1989年に吉田〔清治〕著が韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)されたとき、『済州新聞』の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いていたのである。1989年8月14日付の記事の邦訳は次の通りだ。

 開放解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏づけの証言がなく、波紋をひろげている。(ついで吉田著の概容を紹介)
 しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない
 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクチョン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
 郷土史家の金奉玉(キムポンオク)は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している」

下線は引用者による。漢数字は英数字で表記した。

当該の『済州新聞』の画像(同書、233ページ)



原版は ここ


訳の日本語に不自然な点がいくつかある(下線部)が、わたしはハングルはできないので、確認しようがない。ハングルが読める方、情報をお寄せいただけると有難い。


(2007年8月3日追記)

と書くが早いか、hangulさんとakiraさんが記事を元に解読してくれました。ありがとうございます(감사합니다でいいんでしょうか?読み方わかりませんけど)。

hangulさんからのご指摘

  • 第3段落の後半部、「城山浦の住民のチョン・オクチョン(85歳の女性)」については細かいですが「城山里の住民チョン・オクダンさん(85歳)」が正しいです。「女性」とはどこにも書いてありません。
  • この郷土史家氏は捏造についてではなく、日本人たちの犯した行為のあくどさに「憤慨」していると読み取れます。
  • 「事実無根の部分もあった」→「事実でないと発見した」(秦氏。 この論法、もううんざり…

秦先生の翻訳と重なる部分(akiraさんによる記事の全訳より)

 解放44周年をむかえて、日帝時代に済州道の女性を慰安婦として205人を徴用して行ったという記録が出てきて、大きい衝撃を投げかけているが、後押し証言がなくて、波紋を投げかけている。
 しかしこの本の記録による城山浦ボタン工場で15〜16人を強制徴発した記録らでも..........
 ....信憑性に対する疑問をより一層投げかける。
 城山里の住民丁玉丹氏(85)は「そうしたことはない。250人余家しかならない村で15人も徴用されたなら、どんなにか大きな事件なのに... 当時そんなことはなかった」と言い切った。
 郷土史学者金鳳玉氏は「日本人たちの残酷性と没良心的な一面をそのまま表わしたものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない話をそのまま書いたことで、本という名前をつけることもできない。83年原本が出てきた時、数年の間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ彼らの邪悪な面を表わした道徳性が欠如した本で、軽薄な商業主義な面が追加されたものだと見なせる」と憤慨した。 (許栄善記者)

産経の阿比留記者が引用した翻訳

で、「日韓誤解の深淵」には、この吉田氏の本の韓国語訳が出版された際の地元紙、「済州新聞」(1989年8月14日付)の記事が西岡氏によって日本語訳されたものが載っています。それは次のような内容でした。

 《解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。(略)しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強い疑問を投げかけている。
 城山里の住民のちょん・たんさん(85歳の女性)は「そんなことはなかった。250余の家しかないこの村で、15人も徴用したすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった」と語った。
 郷土史学者の金奉玉氏は「(略)83年に原本(私の戦争犯罪…)が出た時何年かの間追跡調査した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠けた本で、軽薄な商魂が加味されていると思われる」と憤慨した。》


阿比留記事を紹介してくださったyamaki622さんからのご指摘

  • 西岡氏も、hangulさんやakiraさんと同じく「事実無根の部分もあった」と訳しています。

わたしが疑問に思ったこと。

  • 金学順さんが名乗り出られた1991年以前に書かれた記事(1983年)であること。
  • 慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない
  • こういう肝心な部分は引用しないのは何故でしょうか?

ところで朝鮮人らを徴用したことに関する公式記事や関係文書は敗戦直後内務次官の通告により全国道・富・県知事の緊急命令書が各警察署場らに発送されて完全廃棄処分された。

  • 新聞記事の切れた部分には何が書いてあったのか?

週刊新潮 1995年1月5日号の秦先生の言*1

済州島での実地検証の結果は、吉田証言を裏付ける話は何一つ出てこないだけでなく、郷土史家の金奉玉氏は、吉田本の翻訳が出た後、何年も追跡調査をした結果、”そんな事実はなかった”と断定し、”あの本は日本の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物”とこき下ろしている。」(秦郁彦氏)


(WiLL 8月増刊号『「従軍慰安婦」と断固、戦う!』(2007年、ワック・マガジンズ、122ページ)

  • 編集者の二重引用符のつけ方が悪いのかもしれないが(なぜ””なのかも理解できない)、秦先生自身が微妙に言を変えているのが気になる。他の記事での発言はどうなっているのだろう?元慰安婦の証言を「身の上話」としてわずかな表現の食い違いを指摘して、慰安婦の証言に疑問を投げかけてきた先生だけに、自分の言にも常に寸分違わぬほどの正確さを求めないと、ダブル・スタンダードですし、そんなお粗末なことをおやりになるはずないのに不思議です。


(2007年8月4日追記)

記事を読み解くにあたって参考になる資料

 〔秦郁彦〕氏は、吉田氏が強制連行した済州島まで赴き、証言の真偽を確かめようとした。その結果を「昭和史の謎を追う−−第37回・従軍慰安婦たちの春秋」と題して『正論』(1992年6月号)に発表し、同島から「慰安婦」の徴集を示す証言が得られなかったとした。だが、秦氏自身が六〜九万人の韓国・朝鮮人慰安婦」の存在を認めている人である。どうして日本に極めて近い済州島だけ一人の「慰安婦」も徴収されなかったのだろうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかしい。現に、尹貞玉・元梨花女子大学教授が1993年に同島で調査を行ったとき、島民の強い抵抗の中で一人の被害者と推定される証言者が名乗り出た。だが、周囲からの本人への説得と制止によって、それ以上証言をとり続けることを拒否された事実がある(日本の戦争責任資料センターと韓国挺身隊問題対策協議会による第二回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。

 性暴力の被害者すべてに言えることだが、被害を訴え出ること自体に大きな困難が伴う。ましてや儒教が強く残っている韓国社会では、さらに大きな障害となる。したがって、現在元「慰安婦」と名乗り出ている女性のほとんどが身寄りのない単身女性である。それに加えて、済州島という小さな島で名前を明らかにすることは、近隣・親戚に直ちに波及する大事件となる。そして同島は、韓国の中でも差別的に見られていることに留意すべきである。もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田氏の著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせられる危険性を危惧しない者はいないだろう。それを畏れ、島内には箝口令が敷かれてきた可能性を否定できない。要は証言も含め、資料批判が必要だということである。秦氏の論拠だけで吉田氏の証言を嘘と断定することはできないのである。

 引用の恣意性もひどい。西野瑠美子氏が下関の元警察官に聞き取りをし、済州島での慰安婦の狩り出しについて「『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」(二四二頁)と元警察官がはっきりと否定したかのように書いている。

 この聞き取りには私も同席していたが、西野氏の本ではその引用された言葉の後に「しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」と続いている。証言者は、自分は知らないが管轄が違うから断定できないと謙虚に話しているのだ。ところが秦氏は後半をカットすることによってまったく違った結論に導こうとする。

Linさんの家族は、Linさんが戦争中に受けた苦しみを話しに上海に行くことを反対した。今*2でも、海南島の村々では村の恥になるとして、慰安婦の苦難を語ることはタブーである。Linさんは勇気を振り絞って話をしたのだと、彼女の支援者たちは言う。

 名乗り出ることができず今も苦しむ日本人元『慰安婦』たち

"It is difficult for these women to come forward because of the social stigma attached to serving U.S. soldiers," said Mitsuko Nobukawa, an activist with the Tokyo-based Violence against Women in War Network.

"There were thousands of women who served in Japanese brothels around Asia during the war, too, but they suffered in silence and few have talked about their experiences," Nobukawa said.


「米軍兵士の相手をしたことで押された社会的スティグマのために、日本人元慰安婦が名乗り出ることは未だに困難なのです。」と、東京を拠点とするVAWW-NET JAPANの活動家、信川 美津子 は語る。

「第二次世界戦中に、アジアのいたるところにあった日本軍の売春宿*3で客を取らされた女性たちも数多くいたが、名乗り出られずに苦しんでいる。現在までに自分の体験を語った女性はごく僅かです。」

  • Women and war (Amnesty Australia、英語、pdf ファイル)

Silencing the victims

Many victims of gender-based violence carried out during armed conflict are reluctant to talk about their suffering. Pressures from parties engaged in the conflict, the government, the family or community all serve to intimidate many women into silence. Continuing violence or conflict often prevents women from reporting incidents. In many regions reprisal, shame and social stigma are attached to certain types of violence against women, particularly rape. Fear of the consequences of reporting sexual violence, such as facing rejection, alienation, divorce, being declared unfit for marriage and severe economic and social repercussions, all discourage women from reporting the violence they have suffered.


被害者が沈黙して語れない理由

軍事紛争下で行われたジェンダーに基づく暴力、その被害者の多くが自分の被害について口にすることを嫌う。各戦闘勢力からの圧力、政府からの圧力、家族からの圧力、もしくは地域社会からの圧力、これらはすべて、多くの女性を威圧し沈黙を強いる方向に働くのである。暴力もしくは紛争が継続している場合、女性が事件を通報することが困難になることも稀ではない。多くの地域で、報復、恥の意識、社会的スティグマは、特定の類型の女性に対する暴力、特にレイプに結びつく。性暴力を通報した場合の結果に対する恐怖感−拒否、疎外、離婚を招くこと、結婚生活には不向きだと言われること、経済的・社会的悪影響など−のあらゆる恐怖感のために、女性は自分に加えられた暴力を通報することを諦めざるを得なくなるのである。


The reality of abuse

Commencing in 1992, women in the town of Foca, in former Yugoslavia, were systematically raped by Bosnian, Serb and Yugoslav armed forces. Bosnian, Muslim and Croat women were raped every night; they were denied medical care for the injuries they sustained from sexual abuse and beatings. One 12-year-old girl, detained for 10 days in August 1992, was taken 10 times to be raped; her mother was taken twice. In February 2001, at the International Criminal Tribunal, three Bosnian Serb men were convicted of 33 counts of war crimes and crimes against humanity, including the rape of women and girls in Foca.


虐待の現実

1992年以降、旧ユーゴスラビア、フォカ市の女性たちが、ボスニアセルビアユーゴスラビア軍によって組織的に強姦された。ボスニア人女性たち、イスラム教女性たち、そしてクロアチア人女性たちは毎夜、強姦された。また、彼女たちは性的虐待と殴打により外傷を負っていたが、それに対する治療は拒否された。ある12歳の少女は、1992年に10日間拘留され、10回強姦された、また、彼女の母親も2回強姦された。2001年2月、国際刑事裁判所において、ボスニアセルビア人男性3人が、フォカでの成人女性と未成年の女性に対する強姦罪を含む、戦争犯罪および人道に反する犯罪、33の罪で有罪となった。


Thousands of Congolese women of all ages, including young girls and elderly women, have been the victims of rape, physical violence, abduction or sexual slavery. Since the healthcare infrastructure in the east has been destroyed, most women suffering injuries or illnesses caused by rape―some of them life-threatening―are unable to obtain appropriate medical treatment.


これまでに、幼女や高齢の女性を含むあらゆる年齢のコンゴ人女性が何千人も、強姦、身体的暴力、誘拐、もしくは性奴隷状態の被害者となっている。コンゴ東部で医療基盤が破壊されて以降、強姦による外傷や疾患−中には生命に関わるほどのものもあった−を患った女性のほとんどは適切な治療を受けることが不可能になっている。

(2007年8月3日追記)

felis_azuriさんからの情報

吉田清治さんはこの頃から急にマスコミの脚光を浴びました。しかし、実は吉田さんはその10年も前から懺悔の手記(?)を出版していました。その書名は「私の戦争犯罪朝鮮人強制連行」で三一書房から1983年に出されました。その当時この本はほとんど注目されませんでした。
(略)

その動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ従軍慰安婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。

番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしました。一人は城山の長老の洪さんです。田丸さんの質問「この工場から徴用された慰安婦がいるか」に対し、洪さんはいないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人間じゃないよ」と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはないが、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定とも否定ともとれる返答をしました


もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこう語っていました。
「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにしている問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいなのです

この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」はあったかも知れないという印象でした。


韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥です。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しにして生きざるを得ませんでした。

そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザスクープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。


アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」
男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた
アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」
男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せないんだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にもさしつかえる・・・結婚してたら連れて行かれないというので、12から14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ
アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」
ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない
(注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん

(略)

さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです(未確認)。これは韓林花さんのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。

一方、吉田さんを「職業的詐話師」と酷評している人もいます。千葉大学秦郁彦教授はクマラスワミさんにそのように非難したという記事が週刊新潮(96.5.2)に掲載されたそうです。(未確認)

吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技者」とでも呼ぶのでしょうか?

そうした動きに反発したのが、産経新聞などの右派メディアであった。
 産経新聞などの常連寄稿家である秦郁彦氏は、河野談話が出される前の1992年3月29日に済州島に渡り、吉田証言を「実地検証」をしたという。
 しかし、その内容たるや、康大元なる「海女研究家」を通訳に立て、「城山浦の老人クラブ、貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認」という程度のことでしかない。

 「実地検証」と言うにはあまりにお粗末な代物だが、敵意や憎悪を煽って矛先を変えるプロパガンダの要諦だけは心得ているようだ。
 済州新聞(1989年8月14日)に「(吉田証言の)慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない」と書いた許栄善記者を利用することを思いつく。そうして、「『なんでこんな作り話を書くのでしょうか』と、今は『済州新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、『有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります』と答えるのが精一杯だった」と、自著「昭和史の謎を追う」、「慰安婦と戦場の性*4」などで臆面もなく披瀝している。

 ろくな調査もせず、人の話をだしにしながら吉田氏を「詐欺師」扱いする傲慢無礼な論法は、学者らしからぬ。曲学阿世の輩、というべきであろう。
(略)

 「現地調査」とは名ばかりの粗悪品が「立証」などともてはやされるのは、右派保守陣営のニーズに合致したからで、実際、秦氏復古主義者のデマゴーグとしての役割を担ってきた。


△秦書より

私はこの貝ボタン工場のあった城山浦にも行ってみた。海女の研究家でもある康大元(慶応大学出身)の通訳により、老人クラブで4、5か所あった貝ボタン工場の元組合員など5人の老人と話しあって、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしいことを確認した

 公立図書館では1976年頃に吉田が済州島を旅行したときの関連記事を新聞で探して見つからなかったが、思わぬ拾いものがあった。(秦書、232ページ)』

この後、新聞記事の話になります。調査ってこれだけ?ってことでしょうね・・・(Stiffmuscleコメント)

  • 秦氏は吉田氏と直接面会したことはなく、電話で5度インタビュー(吉田証言否定までには2度のみ)しただけ。
    1. 1992年 3月13日
    2. 1992年 3月16日
    3. 1996年 3月27日
    4. 1997年 4月 6日
    5. 1998年 9月 2日


△(2007年8月6日追記)

西岡力『日韓誤解の深淵』(1992年、亜紀書房192ページ)

(くわしくは『正論』九二年六月号秦論文*5参照)。

 吉田氏の本の韓国語訳が出版された際、地元紙の『済州新聞』一九八九年八月十四日付は次のように書いている。

「解放四四周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。(略)しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五〜十六人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは『でたらめだ』と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強い疑問を投げかけている。

 城山里の住民のチョン・タンさん(八五歳の女性)は『そんなことはなかった。*6二五〇余の家しかないこの村で、十五人も徴用したすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった』と語った。

 郷土史学者の金奉玉氏は『(略)八三年に原本(私の戦争犯罪・・・・・)が出た時何年かの間追跡調査した結果、事実無根の部分もあったむしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠けた本で、軽薄な商魂が加味されていると思われる』と憤慨した。*7」(秦教授からいただいた同記事を筆者が翻訳した)。


(強調は引用者による)

秦郁彦昭和史の謎を追う(下)』(1993年、文藝春秋、335〜336ページ、第四一章 従軍慰安婦たちの春秋(上)*8

 解放四十四周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され大きな衝撃を与えている。しかし裏づけの証言がなく波紋をひろげている。
(吉田著の概容を紹介)

 しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五〜十六人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。

 *9島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オク・タン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。

 郷土史家の金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。


(強調は引用者)

  • どちらの書にも、新聞記事の画像はなかった。
  • 秦氏の訳文と西岡氏の訳文は一部を除き非常に似ているが・・・
    • 時系列がわからないので、現時点では、これ以上追求できない。
    • 韓国語がわからないので、韓→日翻訳がこれほど似るものかどうか分からない*10

【資料】済州新聞 慰安婦記事 全文掲載

(Enjoy Korea 1989年8月14日 nishiokatuyosi氏投稿) 魚拓

  • コメ欄のakiraさんによる全訳と比べられたい。エンコリの画像は、このエントリーの最初にあげた画像よりさらに範囲が狭いが・・・


akiraさんへ、新エントリーでは、akiraさんの全訳をアップしますので、ご容赦ください。)

http://www.nekoyamada.com/blog/mt-tb.cgi/144

*1:元記事には当っていないので、検証必要

*2:2007年

*3:慰安所

*4:第7章「吉田清治の詐話」の「1 済州島へ」の冒頭にある。

*5:下記の秦著

*6:この文は秦書にはない。

*7:akiraさんの翻訳に近い

*8:もとは『正論』一九九二年六月号

*9:西岡訳と段落がずれている。

*10:日←→英翻訳ではありえない