宮古島・『慰安婦』・祈念碑・願い


先日、はてな従軍慰安婦問題を論じるグループの掲示板の投稿から、Shinakosanさんの素晴らしいブログ・エントリーに出会うことができた。
■『戦争、慰安婦、私』 (SHINAKOSAN IS OKINAWAN - 2008年06月27日)


沖縄戦に備えた32軍の沖縄進駐にともない、沖縄本島や南西諸島の島々に「慰安所」が設置されたことは知っていたが(下にまとめ項目あり)、宮古島の「慰安所」についてはよく知らなかった。

記事によると『3万人もの日本兵が突如として島にやってきて住民の生活の場に16箇所の慰安所を作った』ようである。この宮古島での調査を行った洪ユン伸*1さんや尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生、宮古の人々たちの手によって記念碑を建立する活動が実を結びつつあることも知った。

洪ユン伸さんの手稿を転載してその活動を紹介し、この活動への協力を呼びかけます。

          

思いを、形にすることについて―宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながらー 洪ユン伸

一つの思いが形になる際、そこには、何が残るのか。宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わって一年が過ぎようとしている。その間、私は、「何故、沖縄なのか」「何故、宮古島なのか」という質問に度々出会い、政治的な目的や背景があるのではないかと批判され、時には、「女性を偶像化するな」とも言われてきたものだ。この碑をめぐる疑問と質問に、今日は答えたい。


私/私たちは、ただ、思いに触れて、その思いを思うがままに行動に移った一人、一人の個人であると。ごく単純に、日本軍「慰安婦」のことを忘れず、彼女の休んだ場所に大きな石を置いて、誰か「朝鮮」から人が来ないかと待っている素朴な農民がいた。


そして、彼の証言を聞き、その思いに触れた者達が集まってきたのだと。それで納得いかないと言うなら、今日は、実際に起きた出会いを語ることで、宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わった経緯を説明しよう。実行委員会のメンバーとしてではなく、何の目的も持たない私自身の思い出として。


沖縄戦朝鮮人」の関係を研究している私は、2006年10月と12月宮古島を訪れた。韓国でインタビューをした朝鮮人軍夫のうち、最も病弱な方が宮古島に強制動員されていたからである。私と宮古島の縁は、このような一人の朝鮮人軍夫との出会いで始まった。部屋に入るや否や「では始めましょう」と正座をしたこのお祖父さんは、始終、姿勢を正し冷静な語調で話しをしてくれたが、何処か不安そうに見えた。
「動物のなかで一番信用できないのは人間だ」と口癖のような言葉が、私を不安にさせたかもしれない。祖父さんは、何故か、「慰安所」の話だけは、すべて日本語で語っていた。


傍でただ話しを聞くだけだったお祖母さんが、「私は『挺身隊』にいかされると聞き、顔もしらない彼と結婚したのよ」と呟いた一言で疑問は解けたが、あの深いため息や、彼のインタビューが終わるまでイライラを禁じえないお祖母さんの、どこか寂しそうな横顔を、私は忘れることが出来ない。


インタビューの終わり頃、お祖父さんが前日までは座ってご飯も食べないくらい元気を失っていたことを知らされた。お祖母さんは何と退院の直後であったことも知った。沖縄に出来た「恨の碑」の除幕式に行きたかったけれど、体調が悪いためいけなかったと寂しげに語るお祖父さんだった。そのとき宮古島の写真でも送ろうとひそかに決めていた自分がいた。


こうして、私は、宮古島に足を運ぶことになった。調査を始めると、思いもよらない証言や人の思に出会った。この島では、井戸など住民の生活がある空間のすぐ傍に「慰安所」があったということが分かった。


3万人もの日本兵が駐屯していたため、住民より軍が目立つほどだったという。沖縄本土と違い、山の少なかった宮古島では、軍が組織的に作った「慰安所」を、住民の目から隠すことは不可能に近かったことも分かった。


生活空間のすぐ傍にいた朝鮮人軍夫や「慰安婦」の方々の苦労を、宮古島の住民は、生々しく覚えていた。この島で、私は、しばしばあの朝鮮人元軍夫とその妻の寂しげな横顔を思い出させる証言者に出会ったのだが、それは、戦争を経験したお祖父さんの顔だったり、この島で何度も危機にさらされたお祖母さんの横顔だったりした。


その一人が、与那覇博敏さんである。与那覇博敏さんは、戦時中宮古島で日本軍の司令部が置かれていた地域に住んでいた。そして、彼の実家のすぐ傍に、長屋の慰安所があり、朝鮮人の女性数人が居たという。水の貴重な島では洗濯をするにしろ、井戸に行かねばならない。彼女たちは、坂道を登ってその井戸まで洗濯物に出かけた。


そしていつも、与那覇さんの実家の前にあった木の下で腰を下ろして休んでいたという。与那覇さんは、彼女たちのことを忘れまいと、石を置いていると話してくれた。そして、二度目の調査の際に、どうか石に名前を韓国語で刻みたいと強く願われたのである。


私は、2006年ユン先生の沖縄調査に偶然、同行する機会を得た。宮古島調査からの帰りだった。ユン先生に、与那覇さんという宮古島の人の思いを伝えたところ「彼のように自分を覚えている人が居ることを知ったら、お祖母さんたちはどんなに喜ぶでしょうか」と、碑をたてることにすぐ賛同してくださった。


こうして、2007年5月、ユン先生を団長とする「韓国・日本・沖縄」共同調査団が、宮古島に足を運ぶことになった。新聞記事を読んで、那覇滞在・宮古戦体験者の方々からも証言したいと声が寄せられた。


同調査団に参加し、与那覇さんの話に触れた「聞き手」を中心に、直ちに募金活動が始まった。2008年、二度目の共同調査を実施。合計15箇所の「慰安所」がこの島にあったことを確認した。宮古島に動員された「慰安婦」の方が韓国にて生存していることも確認された。現在、宮古島・東京・韓国に実行委員会が結成され、広く呼びかけようとしている。 


2008年8月15日、私たちは与那覇さんの土地に「日本軍『慰安婦』のための碑」を建てる。私たちは女性を形象化(表象化)する何の彫刻も建てないことにしている。ただそこには、日本軍「慰安婦」であることを強いられた韓国のお祖母さんたちの多くが自分をたとえ、好んでいた花、ドラジコット(キキョウの花)を一輪置く。


宮古島の暑い夏、かつて彼女たちがそうだったように、「希望の木」(2007年5月植木)がこの石に、大きな木陰を作ってくれるだろう。そして、いつか、あの木の下で休もうと、腰を下ろす旅人は、この真っ黒い琉球岩石を、守っているかのように囲んでいる私たちのメッセージと、小さいキキョウの花の彫刻に出会える。そして「慰安婦」となった女性たちの10つの言語 で刻まれた次の言葉を読むだろう。


 「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります。」


旅人がこの祈りの文を読み終わった後に、あの与那覇さんの石に目を留め、この場所に連れてこられた女性たちへ思いを馳せてくれればよい。基地があるゆえに奪われた夢多かりし少年の思い出と、「慰安婦」と同じ国から駆けつけ「希望の木」を植えた人々の手触りの暖かさに、ただ一輪でも可憐な花は、寂しく見えるはずがない。


この場にたまたま訪ねた人々の思いが、そもまま「祈り文」となるだろう。これらの営みは、決して形などに留まることのない未来への強い希望として働きかけるはずだ。人の思いは形などに留められない。ただ生きているその人自身の「思い」そのもの、まぎれもないごく普通の人間の思いそのものが、歴史を動かす力となることを、私は、多くの日本軍「慰安婦」証言者や沖縄戦語り部に学んだ。それを信じている。

   「あなたの思いとして、募金と寄付を、募ります。」


    宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会
    代表:与那覇博敏・尹貞玉・中原道子・高里鈴代
    ●賛同金:一口2千円。
    ●郵便振替口座:宮古島慰霊碑建立委員会00150-9-540937


宮古島の祈念碑は、世界が戦争の惨禍を受けず、正義がゆたかな川のように流れ、平和が春の日のように温かい世を願う私たちの祈りを象徴するでしょう。」
(尹貞玉、第八回アジア連帯会議にて)


手稿の転載を快く承諾いただいた洪ユン伸さんに感謝します。また、転載にあたり洪さんとコンタクトを取っていただいたShinakosanさんに感謝します。

沖縄(南西諸島)の「慰安所*2

南西諸島の防備のため第32軍が創設されたのは1944年3月22日である。兵力は逐次増強され、8月をピークに南西諸島各地に上陸する。したがって、慰安所の設置は一部の例外を除いてそれ以降となる。

当初、軍の慰安所に対して住民は少なからず反発を示した。・・・

また、渡嘉敷(とかしき)島では慰安所設置を知った女子青年団長ら数名が赤松嘉次海上挺進第3戦隊長に設置取り消しを訴えたが、村長らに慰安所設置は島の女子青年らへの強姦を防止するため必要だと説得され、意見をひるがえした*3

  (中略)

沖縄の人々の調査によると、南西諸島には約130カ所の慰安所があった*4。・・・

  (中略)

・・・軍は沖縄上陸当初から県当局に慰安所設置の申し入れをしたが、当時の県知事泉守紀は「ここは満州や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない」と拒否した*5。・・・

  (中略)


ところで、慰安所が設置される一方で、沖縄の女性に対する性犯罪が少なからず発生した。・・・

・・・十・十空襲後、混乱に乗じて、掠奪、強姦が次々に発生し・・・

沖縄の住民があえて「占領地二非ズ・・・*6の立て札を掲げなければならなかった・・・

  (中略)

1945年1月13日付、「軍並旅団ニ於ケル副官会同会報事項」の「旅団長注意事項」では端的に

   「焼カズ、取ラズ、犯サズ、ノ三原則ニ徹セヨ」

といましめているほどである*7。だが、こうした厳命がくり返されたにもかかわらず、強姦はたびたび発生した・・・


1945年3月23日、米軍は沖縄に対し、猛攻撃を開始する。4月1日、沖縄本島に上陸を開始し、沖縄本島の細くくびれた中部を占領、南部と北部に分断した。第32軍の指令部壕のあった首里にいたる中部で激しい戦闘がくりひろげられたが、5月末、日本軍は首里を撤退、南部の摩文仁(まぶに)へ向かう。このとき、住民に対する配慮がほとんどなされなかったため、多くの住民が首里と南部のあいだを彷徨、多数の犠牲者を出した。このような戦闘状況の中でさえ強姦事件が発生した。

米軍が近づいてきていた南部の壕で2人の女性が日本兵に強姦されたという住民の証言がある。そのうち1人は、発熱していたのに注射をうたれ、兵隊にくりかえし強姦されていた*8

  (中略)

沖縄戦では日本軍も住民も多くの犠牲者を出した。日本軍の戦死者は約9万4000名、住民の死亡者は十数万人にも及んだ。当時の沖縄の人口は約45万人であったから、ほぼ3,4人に1人の割合で犠牲者が出たことになる。慰安婦も住民同様、いやもっと高率の犠牲者を出したに違いない。

*1:ユンはへんが「王」でつくりが「允」

*2:吉見義明、林博史共同研究 日本軍慰安婦』、大月書店、1995年、128〜133ページより抜粋引用。漢数字は適宜、算用数字で表した。

*3:川田文子『赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦』、筑摩書房、1987年、60ページ 

女子青年団役員会の協議事項はどこからか漏れ、正式に抗議しようとしていた前日、村役場に勤務している古波蔵(こはぐら)女子青年団長のもとに、隊長が出向いて来て、慰安所の設置理由が示された。
 −−兵隊というものは遊びに呼んでいるんではない。だいたい戦地は慰安所を置いている。慰安婦を置くということは、むしろ、あなた方の身を守るためなんだから了承してください、ということで、村長なんかを前にして、懇々と説得されたわけです。なるほど、そういうこおとがあるんかな、そりゃもう、われわれが云々すべきことじゃないということで、一応は阻止運動はしないことになったんです。

*4:「報告集」編集委員会『第五回全国女性史研究交流のつどい報告集−沖縄から未来を拓く女性史を!』、同実行委員会、1994年、25〜31ページ、慰安所分布表より

*5:野里洋『汚名 第二六代沖縄県知事 泉 守紀』、講談社、1993年、91ページ

*6:吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、415〜416ページ、「石兵団会報第七九号(10月26日)」

*7:前掲書、430ページ

*8:川田文子『戦争と性』、明石書店、1995年、137ページ