真実を教えれば

中国人元「慰安婦」−過去の痛みをカナダの高校生たちと分かち合う

'Comfort woman' shares her painful past (The Globe and Mail - July 9, 2007)より要約  魚拓

上海−Lin Yanjinさん(81歳)は、旧日本軍の戦時性奴隷についての真実を身をもって知る最後の証人の一人だ。Linさんは、17歳のとき、海南島を占領していた日本兵に毎日レイプされた。


慰安婦の証言を否定する政治家が増え、ナショナリズム愛国主義が台頭する日本の現状。安倍総理の強制否定発言。ワシントンポストに掲載された広告 "THE FACTS"は、「慰安婦」は「公娼」で、将校より高給だったと言い放った。こういったニュースは、日本軍基地での性奴隷生活を耐え、生き抜いた女性たちにとっては、その痛ましい傷跡に深い侮辱を新たに加えることになった。


「ニュースを耳にしたとき、ものすごく腹が立ちました。日本政府はいまだに事実を否定し続けている。でも、本当の出来事なんです。海南島でわたしに起こった事なんです。そのとき日本兵から受けた暴力が原因で、わたしは今も苦しんでいるんです。」とLinさんは語る。


旧日本軍の占領下、20万人の女性(主に中国人と朝鮮人)が強制的に性奴隷状態に置かれたと推定されている。存命している中国人元慰安婦で、名乗り出たのは、わずか47人だが、彼女たちも年ごとに、生の終わりに近づいていく。2006年初頭、Yuan Zhulinさん(83歳)が亡くなって、生き証人がまた一人減った。


1941年、当時日本軍の占領下であった中国南部で、21歳だったYuanさんは、日本兵たちに、旅館の掃除係として働かないかと言われ徴募された。しかしその誘いとは違い、Yuanさんが送られたのは旧日本軍基地の「慰安所」だった。彼女は抵抗したが、兵士たちは銃剣をつきつけてYuanさんを無理矢理、「慰安所」に連れ込み、そして慰安所の日本人楼主がYuanさんを殴った。その時、Yuanさんには2歳になる子どもがいたが、Yuanさんと無理矢理引き離されて、その子は餓死した。


「母が強制的に慰安婦にされたのは明らかです。」とLinさんの養子であるChen Feiさん(60歳)は語った。


ChenさんとLinさんは、〔2007年7月6日〕土曜日に、上海で、カナダの高校生一行に講演を行った。今年は、1937に始まった抗日戦争70周年である。講演は、中国最初の「慰安婦」資料館が開設された上海師範大学で行われた。先週、開設された資料館には、日本軍のコンドームや他の証拠が中国の慰安所跡から収集され、所蔵されている。館長である Su Zhiliang 歴史学教授は、日本軍は上海だけで約160軒の慰安所を設営したと語る。教授は、古い写真や資料を使って、その慰安所のほとんどの正確な住所を突き止めた。今回名乗り出た中国人慰安婦のうち、最年少は12歳だった。少女たちや女性たちは、一日に最高で50回セックスを強制された。


Linさんは、か細く、震える声で、自分の話を、カナダの高校生に語った。最初は、感情を表に出さなかったLinさんだったが、やがて何度も涙を流した。Linさんの話を聞いていた高校生たちの多くも泣いた。


Linさんの家は農家で、1943年に、田んぼで農作業をしていたとき、日本兵によって日本軍基地に連行された。「わたしたち慰安婦の扱いは牛や馬以下でした。着替えも与えらず、昼夜を問わず犯されたのです。日本兵たちがレイプしたとき、わたしは強く抵抗しましたが、彼らの力はあまりにも強かった。日本兵たちはわたしを殴り、わたしの顔にタバコを押し付けたんです。顔全体、身体全体が腫れあがりました。逃げ出したかったですが、逃げる方法はありませんでした。わたしは一日中泣いていました。」とLinさんは語る。

捕らわれて5ヵ月後、両親が中国人の警備員を買収することに成功し、Linさんは脱出した。脱出後2ヶ月経っても、血尿が出て、Linさんの体調は非情に悪いままだった。しかし、それだけで彼女の苦しみが終わったわけではなかった。幾度となく日本兵が村にやってきて、その中の幾人かがLinさんを再びレイプしたのだ。


終戦後、Linさんが結婚する気持ちになるまでには何年もかかった。「わたしが受けた暴力のせいで、自分自身をとても醜いと感じていたのです。恋愛なんて考えてはいけないと思っていました。」とLinさんは語る。その後やっとLinさんは結婚したとき、妊娠していたが流産し、二度と子どもを埋めない体になってしまった。Linさんは男の子を養子に取った。「わたしの子宮はわたしが受けた外傷から回復することはありませんでした。今でもわたしは痛みを感じています・・・心にも身体にも。わたしが味わわされた惨劇が、わたしの全人生を滅茶苦茶にしてしまったのです。今でも気分がひどくすぐれません。男性がわたしを好きになることなんてあり得ないと思っています。」とLinさんは語った。


Linさんは、その人生のほとんどを、海南島の丘にある粗末な小屋で、貧しさの中で、生きてきた。最近は、上海師範大学の研究者たちからの僅かな援助金を受けている。

Linさんの家族は、Linさんが戦争中に受けた苦しみを話しに上海に行くことを反対した。今でも、海南島の村々では村の恥になるとして、慰安婦の苦難を語ることはタブーである。Linさんは勇気を振り絞って話をしたのだと、彼女の支援者たちは言う。


「わたしは、ただただ、心の平安がほしいだけなんです。日本政府は謝罪し、賠償金を支払うべきです。でなければ、わたしの心は癒されません。」とLinさんは訴える。


バンクーバー近辺の複数の高等学校からやって来た高校生たちは、Linさんの話に心を動かされた。「誰もが慰安婦について知ることがとても大切です。知らなければ、歴史が繰り返されてしまうかもしれない。」と、高校3年生のSaraさんは言う。

「あなたはわたしたちの勇気の源です。Linさんたちの活動は絶対に実を結びます。多くの人が知ることで、世界は変わります。」と、SaraさんはLinさんに言った。

高校1年生のMeganさんは、「(Linさんの話を聞いて)心が痛みました。起きた事実も恐ろしいですが、もっと恐ろしいのはわたしたちが慰安婦について知らなかったこと、そして、学校で教えられていないことです。」と語った。


【関連ニュース】

上海師範大学で7月5日、中国「慰安婦」資料館が正式に開館した。資料館では80余りの「慰安婦」の研究資料を展示し、なかには慰安婦制度実施の証拠となる物件、各地の「慰安婦」の口述記録、被害者が慰安所で使用していた生活用品などがある。

従軍慰安婦問題を学び発信する女子学生たちの活動が本に朝日新聞 - 2007年07月09日)

魚拓

女子学生たちが従軍慰安婦問題について、ゼミで学び、韓国に足を運んで交流した体験を講演会で話し続けている。周囲から「就職に不利になる」と言われたこともある。でも、被害者のハルモニ(おばあさん)に会って「彼女が負った傷は消えていない。過去の話ではない」と思った。高校や市民団体に呼ばれ、講演会は昨年秋から17回を数えた。先月には活動記録をまとめた本も出版された。


「慰安婦」と心はひとつ 女子大生はたたかう

「慰安婦」と心はひとつ 女子大生はたたかう

(追記)


たとえどんなに悲惨な出来事でも、たとえどんなに罪の意識に苛まれようとも、避けたり、否定したりせず、事実を直視することから教育は始まる。被害を受けた者や苦しみにあえぐ者の訴えを自分のものとして共感し、分かちあうことで、こどもは成長していく。

真実に触れた、この学生たちの声や想いこそが世界を良い方向に変えていく力となる。事実(真実)をありのままに伝え、教えていくこと、これこそがこどもの「生きる力」や「学力」につながるのだ。



と、せっかく、ええ話!やったのに、スカタンどもがまた蠢動してるようです。