日本国民を遺棄した関東軍


鍛治致氏の論文 「中国残留邦人」の形成と受入について 選別あるいは選抜という視点から より抜粋(pdfファイル)

残留孤児: 満州崩壊: 根こそぎ動員: 男手とられ婦女子で逃避行


札幌市の石柴田正雄さん(68)は、残留孤児のために開いた全寮性の日本語学校の校長をしている。40 年前の8 月、ソ連の参戦直後に根こそぎ動員で応召、14 日夜、黒龍江省のチャムスを出る最終避難列車に、救護医師として乗り組んだ。


「列車には、すでに50 人ほどの兵隊と将校が乗っていた。鉄橋にさしかかるたびに列車をとめさせ、電話線を切り、橋を爆破する。奥地にはまだ大勢の開拓団が残っている。爆破はやめろ、と抗議したが、『ソ連軍の追撃を断つ作戦だ』と相手にされなかった」

「道路の橋も、兵隊が敗走しながら爆破している。後から来た開拓団の女子どもは、橋の手前で立ち往生です。ソ連軍に追い詰められ、河原で輪になって集団自決をしたり、一本の縄を頼りに川を渡ろうとして濁流にのまれたり」

ところが、ソ連軍は、橋がなくともすぐ仮橋を架けて楽々と進撃して来る。爆破は開拓団難民の避難路をふさぐだけの結果となった。「日本軍に殺されたようなもの。私は今でも関東軍を許せない。」と柴田さん。


山梨県一宮町で、ぶどう園を経営する荻原正三さん(71)は、中国黒龍江省富裕県、五棵樹義勇隊開拓団の幹部だった。20 年7月末、召集令状が来た。これも根こそぎ動員である。それまでに約200 人の団員が次々と応召していき、男手は荻原さんが最後の1 人だった。団員の妻子だけ約20 人が後に残された。8 月1 日に奉天(現瀋陽)の部隊に入隊した。砲兵隊だったというのに、砲どころか小銃も、兵舎すらなかった。部隊長が召集されてきた老少佐なら、兵隊も各地から寄せ集めの老兵ばかり。「これが関東軍か、と信じられない思いだった」と荻原さん。


敗戦で、部隊はまもなく解散。荻原さんは開拓団に残した妻子を捜すため、避難民の流れとは逆に、はるばるチチハル郊外に向かった。が、既に遅かった。子ども2 人は死に、近郊の開拓団は集団自決をした後だった。

「兵器もないのになぜ動員をかけたのか。根こそぎ動員で、逃避行は婦女子と老人だけになった。そこへソ連軍と暴民が襲いかかった。男たちがいれば、状況判断や食料調達などができ、被害を最小限にとどめることができたのに」


根こそぎ動員でシベリア送りにされた方が、結果的に生存率が高かった。夫はシベリアから復員したが、妻は避難途中で死に、子どもは残留孤児に、という典型的なケースでは、孤児の肉親判明率が特に低い。


(朝日新聞1985 年11 月24 日朝刊14 版22 頁 縮刷版904 頁)


中国帰国者・サハリン帰国者支援ホームページ「同声・同気」より


独断で「満州事変」を引き起こした関東軍、それを追認した大日本帝国政府。
政府の肝いりで満州に入植した日本国民を最終的に遺棄した関東軍
この体質は、こと関東軍に限ったものでなく、旧日本軍の体質そのものだったように思われる。
政府や文化人、マスコミに煽られ,当時の日本国民が自ら戦争に熱狂していった*1
同じ轍を二度と踏まないために、われわれは今、何をすべきかを真剣に考えなければならないと思う。


今、読んでおきたいWEB上の文献

日本の戦争-領土拡張主義の歴史/不破哲三さんに聞く(第1回〜第5回) しんぶん赤旗

ブログ『安倍は終わった』より

内にたいしても無法・残虐


不破 日本軍は、中国人など攻め込んだ国の人びとに無法・残虐な行為をやってたいへんな惨害をアジア各国にもたらしましたが、その軍隊は、内にたいしても無法・残虐でした。飢え死に必至のところへ平気で大軍を送り込む、武器も食糧ももたせず、精神主義でがんばれと死地にかりたてる、しかも「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」を至上命令の一つとし捕虜になることを禁ずる。米軍正面攻撃の通路となった島々で、いわゆる「玉砕」が連続したのは、その結果でした。


 さらに、「人間性の欠如」は、大きな戦争指導にもつらぬかれました。百数十万と推定される餓死者は、戦争の最後の二年間に集中しています。日本の敗色が明らかになってきた時に、戦争指導者たちが戦争終結の決断をしていたら、インパール、フィリピンの飢餓戦線は現出しなかったし、南西あるいは中部太平洋の島々に置き去りにされた部隊も、多くの人びとが生命を失わずにすんだでしょう。さらに、日本国民は、沖縄戦も、全国の都市を焼き尽くした大空襲も、そして広島・長崎も経験することはなかったはずです。


 ところが、戦争指導者たちは、その時に、日本国民の生命をまもることを考えないで、反対に「本土決戦」「一億玉砕」を叫んだのでした。これは、自分たちの野望のためには、全国民の生命を犠牲にしてもかまわないという、「人間性の欠落」を極限にまでふくれあがらせた合言葉でした。


 “靖国派”は、自分の立場を合理化しようとする時、戦没者への追悼の問題をいつも持ち出します。しかし、戦没者への本当の追悼のためには、日本が経験してきた戦争の現実をはっきり見ることがなによりも重要です。


 アジア諸国民にとっても、日本の兵士と国民にとっても悲惨な戦争であった現実を、それが日本の指導者たちの侵略主義、領土拡張主義によって引き起こされた不正義の戦争だったという真実とあわせて、しっかりとつかんでこそ、戦争に生命をささげた多くの人たちの死を無駄にしない、本当の意味での追悼が可能になるのだと、私は思います。

関東学院大学 林博史先生の論文より

太平洋戦争で日本の形勢が不利になるにつれ、関東軍から精鋭部隊が南方に引き抜かれていった。そのため開拓団などから在留邦人を根こそぎ徴兵したが訓練も装備も不十分な部隊であった。1945年5月に大本営満州南部の新京(長春)より南に防衛線を作ることを決定したが、開拓団には伝えなかった。取り残された開拓団はかかしの役割を果たさせられた。

 ソ連軍の攻撃が開始された8月9日には関東軍司令部は新京を放棄して朝鮮との国境に近い通化へ「転移」した。そのため成年男子を徴兵で取られて老人や女性子どもばかりが残されていた開拓団は関東軍に置き去りにされ、ソ連軍に蹂躙されることとなった。ソ連軍による殺傷、強姦、略奪をうけ、集団自決した開拓団もあった。その中で数千人の子どもたちが中国人に引き取られて生き延び、後に中国残留孤児と呼ばれるようになった。死者は在満邦人全体では約17万6千人とされているが、うち8万人あまりは開拓団ら移民であり、彼らの犠牲の多さは際立っている。

 ソ連が「約60万の日本人をシベリアに連行して…およそ1割を死亡させた」と書いていますが、日本軍の捕虜になった連合軍兵士の27〜28パーセントが死亡したことには触れていません。米軍による空襲については比較的詳しく触れていますが、日本軍による重慶など中国都市への無差別爆撃が先行していたことは無視しています。ナチス・ドイツは一般住民のうち約600万人のユダヤ人、約200万人のポーランド人とそれを上回る旧ソ連人、約50万人のロマを「収容所で殺害」したと書いていますが、収容所でこれだけの人々が殺されたという事実はなく、間違った記述です。

 いずれにせよナチスの犯罪あるいは日本が被害者の場合については具体的に数字を示している(根拠がはっきりしないものも含めて)のに対して、日本軍がアジア諸地域で殺害した人数については南京事件を含めて何も書いていません。

沖縄戦集団自決と教科書記述問題


やっしゃんさんが『美しい壷日記』で、何度かにわたり取り上げておられます。

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-category-7.html



見解が異なるブログ

従軍看護婦集団自殺−青葉地蔵尊由来記

草莽崛起 ーPRIDE OF JAPAN (2007年07月04日)
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-939.html

これがロシアの実態です。これが戦争です。我々日本人が絶対に忘れてはならないことだと思います。ロシアに対しては「人の良さ」に封印しましょう。

平和を愛する諸国民。そんな人は絶対にいません。少なくとも北西の方角には。(増木)


どうしてこういう言葉が出てくるんだろう?

*1:空気を読んだ?