秦先生の済州島旅行記以前、吉田証言は問題になっていなかったのか?


今、わたしの手元にある西岡力先生の著作および西岡先生の寄稿や発言などを収録した書籍は以下の通りである。

  1. 西岡力『日韓誤解の深淵』、亜紀書房、1992年
  2. 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会 編『歴史教科書への疑問』、展転社、1997年
  3. 西岡力『闇に挑む!』、徳間書店、1998年
  4. 西岡力『日韓「歴史問題」の真実』、PHP、2005年
  5. 西岡力『よくわかる慰安婦問題』、草思社、2007年
  6. 月刊WiLL 2007年8月増刊号『「従軍慰安婦」と断固、戦う!』


1.の『日韓誤解の深淵』のVII章『従軍慰安婦日韓条約の真実』は文藝春秋1992年4月号の西岡寄稿『「慰安婦問題」とは何だったのか』を収録したものである。

実は、この章には、吉田清治氏の著作に対する言及が全くない。これはこの寄稿が秦郁彦先生の済州島旅行記が出版*1される前のものだったことと関連があるのだろうが、単にそれだけではないような印象も持つ。
例えば、以下のような記述がある。

 そもそも従軍慰安婦の問題が韓国でクローズアップされてくるきっかけを作ったのは、反政府系の『ハンギョレ新聞』に90年1月、4回にわたって連載された尹貞玉梨花女子大学教授(当時)の「『挺身隊』怨念の足跡取材記」という記事だった。これまで日本人研究者らの手によって明らかにされていた情報をもとに、尹教授は、北海道、沖縄、タイ、パプアニューギニアなどを訪れ、元従軍慰安婦2名*2の話を聞いたり、関係者の証言や資料を集めたりという取材を行った。そして、その取材を連載記事の中で生々しく伝えたのである。


『日韓誤解の深淵』、157〜158ページ


尹先生が書いた『ハンギョレ新聞』の連載記事は、尹貞玉 他『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」―明日をともに創るために (三一新書)』(三一書房、1992年)で全文を翻訳で読むことができる。この中で、尹先生は吉田清治氏の著作『私の戦争犯罪』(三一書房、1983年)の内容を次のように紹介している。

 吉田清治さんは『私の戦争犯罪』(1983年)中の「第3話 済州島慰安婦狩り」という章で、労務報国会下関支部の動員部長だった自分がどのように慰安婦“狩り”を行ったかを告白している。彼は済州島に駐屯していた日本陸軍の協力で11人の歩兵と軍用トラック2台を得た。


吉田清治さんの戦争犯罪の告白

1943年5月、このころ朝鮮人は日本軍にひっぱられれば彼らの“えじき”になると思っていた。吉田の徴用隊はまず帽子をつくる家を襲撃して2、30人の女性のうち8人を連行した。女性たちが悲鳴をあげるや4、5人の強壮な朝鮮人の男たちが道をふさいだ。銃剣でおどしても男たちは手を振り上げ朝鮮語で必死に抗議した。隊員たちが銃剣を突き付けるとようやく逃げて行った。「アイゴ、アイゴ」と泣き叫ぶ女性たちをトラックに押し込んだ。トラックは林の中に入って行った。吉田は徴用隊長の依頼に従って隊員たちにたった今捕らえてきた女性たちと“遊ばせ”た。
 城山浦のボタン工場でのことだ。ためらう社長をどなりつけて工場の中に入った。女工たちは30人ほどだった。徴用隊が「作業停止!」と叫ぶや女性たちは悲鳴をあげた。慰安婦の女性を選別していると、一人の老婆が隊員の腕にしがみついた。横にいたほかの隊員が老婆の頭にまいていた手拭をつかんで頬を殴りつけた。妊娠中でおなかの大きな女性のスカートを捲りあげて下着に隠されたおなかを見た。年のいった女工が吉田に駆け寄って「朝鮮の女をどうするのですか!」と日本語で抗議した。吉田は「戦争のためだ、じゃまするな!」と怒鳴り、女工朝鮮語で泣き叫びながら吉田に抗議し続けた。吉田は彼女を押しのけ、別の徴用隊員が彼女の顔を殴った。この工場での「収穫」は16人だった。門の横で見守っていた社長は言葉もなく行ってしまった*3。・・・・・・


尹貞玉 他『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題』、三一書房、1992年、32〜33ページ


西岡先生は、後に、「吉田の本が出た直後に読んだ私も「吉田氏が本で書いている光景と、韓国で年長者が語ってくれた植民地時代の様子はかなり異なっている。だから、簡単には信じられない」*4」と信憑性を疑い、吉田清治が、最初に本を書いた*5直後、韓国に来て、韓国のテレビで謝罪するという番組をつくった。私はちょうどそのときソウルに住んでいたので、その番組を自宅で見た。83年12月のある日のことだったのだが、そのときに、吉田が最後深々と頭を下げて謝り、番組が終わった*6とも書いており、吉田清治さんの著作や尹先生の新聞記事に引用された部分から、吉田さんが政府機関の人間として、「皇軍慰問の女子挺身隊」の名目で、済州島在留の日本軍の協力のもと、「暴力的な強制連行」を行ったことを重要視しないはずはないのだが、なぜかまったく無関心である。


さらに、尹先生の『ハンギョレ新聞』で紹介されたユユタさんについても触れておく。
尹先生の書いた『ハンギョレ新聞』記事によると、ユユタさんは尹先生には彼女の「慰安婦」としての体験を話してくれなかったのだが、松井やより氏の話や松井氏が書いた新聞記事を元にこう書いている。

 松井さんの話によれば、ユユタさんは慶尚道出身で慰安婦になる前に結婚した。実家が貧しく婚家も貧しい上に姑にいじめられ、彼女はそこを逃げ出して釜山の近くに住んでいた。井戸水を汲んで水桶をかつごうとしたとき日本人巡査4、5人が「待て」と声をかけた。驚いた拍子に桶を落とし、巡査の服を濡らした。さんざん蹴られた末に結局連行された。1942年、22歳のときだった。
 彼女はシンガポールとマレーシアで軍人たちの洗濯や幕舎の掃除、弾薬の運搬をし、夜は軍人たちの慰安婦にさせられた。松井さんは1984年11月2日付『朝日新聞』に次のように書いている。「朝から何十人もの相手をさせられる日もあった。少しでも反抗すると、監督に殴られ、髪を引っ張られ、半裸で引き回された。人間以下の生活だった。」日本の敗戦を知ったとき朝鮮人慰安婦たちは抱き合って泣いた。しかし、故郷の地を踏めない体だと思った。1年後、タイに渡り飲食店で働いていたとき今の夫に出会い、結婚した。


尹貞玉、上掲書、37ページ。


ユユタさんの場合も、官憲による暴力的『強制連行』によって『慰安婦』にさせられているにもかかわらず、吉田清治さんの例同様、このエピソードにもまったく触れていない。


秦先生の済州島旅行記が出版された後、西岡先生は吉田清治さんを「慰安婦問題」を大きくした諸悪の根源であるかのように激しく攻撃し続けるのであるが、秦先生のあの杜撰な調査を鵜呑みにして鬼の首を取ったように大騒ぎする様子と、それ以前のあまりの無関心ぶりという両者の激しい落差はただ呆然とするしかない。それとも、単に、秦先生の済州島旅行記以前は吉田清治さんの著作や証言はまったく問題にされていなかったということなのだろうか?


この時点で、西岡先生が攻撃のターゲットにしているのは、

 1)朝日新聞(とくに植村記者)
 2)金学順さん

だが、西岡先生の「挺身隊」の認識と、「妓生(キーセン)」の認識はかなりおかしい。また、金学順さんの証言から都合のいいところだけを切り取り、都合の悪い部分は取り上げないという、あからさまな情報のトリミング*7を行っているが、それは次回以降に触れたい。


さらに、西岡先生の展開する

 ・「広義の強制の発案者は官僚」説や(本来の目的はこれだったのだが・・・)、
 ・「強制」、「強制連行」、「奴隷」に関する西岡流定義や、
 ・2007年の著作にいきなり挿入された「狭義の強制連行=性奴隷」説や、
 ・西岡力ご愛用マテリアル‐その性質と質的変化 や、
 ・西岡力「唖然とする表現集」

なんかも取り上げたいとは考えているが、先生の文章読むのは結構難儀なんだわ。

*1:『正論』1992年6月号、1992年5月1日発売

*2:沖縄在住のぺ・ポン・ギさん、タイ在住のユユタさんの2名。なお、尹教授がぺさんと最初に会ったのは1980年のことである。

*3:吉田清治『私の戦争犯罪』 100ページ

*4:『よくわかる慰安婦問題』、21ページ

*5:引用者注:吉田清治氏の最初の著作は1977年出版の『朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記 』(新人物往来社)である。

*6:同書、148ページ

*7:同様のトリミングは秦郁彦先生も行っている。