秦郁彦先生が触れていない『吉田証言』
2007年(平成19年)03月05日参議員予算委員会で当時の総理、安倍晋三氏は次のような発言をしている。
○小川敏夫君 この三月一日に強制はなかったというような趣旨の発言をされたんじゃないですか、総理。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) ですから、この強制性ということについて、何をもって強制性ということを議論しているかということでございますが、言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかったということではないかと、こういうことでございます。
そもそも、この問題の発端として、これはたしか朝日新聞だったと思いますが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたわけでありますが、この証言は全く、後にでっち上げだったことが分かったわけでございます。つまり、発端はこの人がそういう証言をしたわけでございますが、今申し上げましたようなてんまつになったということについて、その後、言わば、このように慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はないということでございます。
(強調は引用者)
あらためて読み直してみても、安倍前総理の答弁というのはわけがわからんのだが、それはおいておいて、国会で総理大臣から嘘つきよばわりされた吉田清治さんはほんとうに可哀相だ。吉田さんの書著*1に出ている済州島での「慰安婦」狩りを、『城山浦の老人クラブで、四、五ヵ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話しあって、吉田証言が虚構らしいことを確認』*2し、済州島新聞の吉田書の書評を紹介しただけで、『吉田清治の詐話*3』と決め付け、クマラスワミさんへの手紙で"I remind you that I informed that Yoshida was a "professional" liar,(吉田は「職業的な」嘘つきだと言いませんでしたか?*4"とおよそ大学教授とは思えない下品さで吉田さんをこき下ろしたのは秦郁彦先生であることはよく知られている。
秦先生の、文献収集能力がすこぶる優秀であることは、『慰安婦と戦場の性』の引用文献の豊富さを見ればわかるし、さすがだなと感心することしきりである。吉田清治さんに関する文献でも、吉田さんの著作、新聞や週刊誌の記事、講演、裁判での証言など非常に広範かつ入念に調査している。
だがしかし、ひとつだけ秦先生が紹介していないものがある。1986年8月15日、大阪森之宮ピロティホールで開催された「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」(戦争犠牲者を心に刻む会 主催)での吉田さんの講演である。以下、部分引用する。
従軍慰安婦の悲劇
私が今日、自分の犯した強制連行の罪に対して、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題が二つあります。一つは、従軍慰安婦を九五〇人、強制連行したことです。この従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略した時、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指導のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上ないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。
この婦女子の、韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が一〇人か一五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道(どう)の警察部を中心にして総督府の警察官五〇人か一〇〇人を動員します。そして警察官の護送トラックを五台から一〇台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣(ぼっけん)を持っていましたから、殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から三人、五人、あるいは一〇人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置所に入れておいて、三日から五日の間に、予定の一〇〇人、あるいは二〇〇人の人数を揃えて、朝鮮の鉄道で釜山
あまで運び、釜山から関釜連絡線で下関に運んだのです。
下関では、七・四部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りに来ている軍属に引き渡します。そしてご用船でこれを中国、あるいは南方へ送るという業務を、三年間やっておりました。
(略)
その頃(引用者注:1984年ごろと思われる)、加害者の私も韓国のテレビ局に呼ばれて、戦争犯罪人としてこの従軍慰安婦徴用について、一問一答されて、一時間のテレビ放送をさせられました。これは当然の私の義務だと思って、率直に、従軍慰安婦の前線における日本陸・海軍将兵からの三年間における辱(はずかし)め事実を、私はもと中支派遣軍の嘱託で前線にいましたので、その実体も含めて、韓国国民に公表しました。*5
(強調は引用者による)
いくら秦先生といえども、「上手の手から水がこぼれる」の喩えのごとく、一つの証言を見逃していることがあっても不思議ではない。
だがしかし、秦先生は1996年3月27日の吉田清治さんとの電話での会話について、こう書いている。なんか臭う・・・
・・・彼が「済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道でのできごとだった」と言うので、「では全羅南道の話はすべて真実か」と聞くと、「いや、全羅南道の被害者に迷惑がかかるといけないので、他の場所での話が混ぜてある・・・・・」と答えるに及んで、私はそれ以上、問いただす気力を失った。
しかし、この問答は事実上彼の証言がほとんど虚構であることを自認したものと見てよいのではないだろうか*6。
吉田さんの全羅南道での慰安婦狩りをそのとき初めて聞いたはずの秦先生が、『すべて真実か』と聞くのも変だし、吉田さんが『他の場所での話しが混ぜてある』と答えるのも辻褄が合わない。だいいち、何故、『ほとんど虚構であることを自認した』ことになるのだろうか?
まぁ、秦先生が書かなかった部分の会話で詳しい内容を吉田さんが話したという考え方もできるが(それなら、秦さんの書き方の問題だ)、それなら今でも遅くないから会話の全貌を明らかにすべきだろう。また、いままで知らなかった吉田さんの話が出てきた以上、学者ならきちんと調査すべきではなかったのだろうか?
また、小林よしのり氏が『SAPIO』1997年11月26日号に掲載された『新・ゴーマニズム宣言 第55章*7』で、上記の1986年の吉田氏の講演について述べていると上杉聰氏は書いている。
それまで、私が事務局長をつとめるアジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会の集会に吉田氏を二度お招きしたことは、小林氏が「新ゴー宣」第55章に描いた通りである。
一度目は、1986年のことで、すでに他の場所で何度か講演している吉田氏に私たちの集会へも来てもらった。同氏への批判は、その後運動の中に見られたが、私は決定的なものとは考えなかったため、そのまま私たちの本(『アジアの声』シリーズ、東方出版)にも彼の証言を採録した*8。
小林氏がこの事実を公表したのが1997年11月、秦氏の『慰安婦と戦場の性』の発行が1999年6月であるから、小林氏から秦氏にこの情報が伝わっていなかったとは考えにくい。しかし、小林氏も1986年の吉田さんの講演を特に問題視していない、というか、吉田さんは「職業的詐話師」という決め付けが強すぎて講演の内容まで気が回らなかったのかもしれない。
それはそれとして、この1986年の吉田さんの講演については、ネット上でも断片的に情報が出ているが、これを「強制連行はなかった」と叫ぶ人たちも問題にしていないことも気になる。彼らは真実を知りたくないのだろうか?それとも吉田さんは「職業的詐話師」と決め付けてしまっていて、これもどうせ嘘だと結論づけるのだろうか?
やはり、ここはぜひ、秦先生が吉田さんの証言の真相(済州島、全羅南道、1986年の講演)を明らかにするべきだと思うのだが、みなさんどうであろうか?
吉田さんが言っている済州島、全羅南道、もしくは朝鮮半島でのことが真実だった場合、一国の総理が一国民を不確かな証拠にもとづいて国会で”嘘つき”呼ばわりしたことになるのだ*9。その場合、これは由々しき問題になる。