どくしょのじかん 10
ひさしぶりに秦郁彦先生の『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)について書いてみたい。少し前に、秦先生の女性観を端的にあらわす部分を引用して紹介したので、今回は、秦先生の引用テクニックについて書いてみる。
『慰安婦と戦場の性』の「第11章 6 フェミニズムの乱流」で秦先生は、次のように書いている。
私が月刊誌『諸君!』に「右も左も手を汚しているとなると、慰安婦問題はそのうち『男による女の抑圧』へ焦点が移っていくのかも知れない」と書いたのは1992年9月だが、主要なフェミニストたちによる独特の「仲間用語(ルビ、ジャーゴン)」(ジェンダー、カムアウト、トラウマ、セカンド・レイプ、パラダイム転換など)がまじる過激発言を集めた表11−6を見ても、予告どおりになったと言ってもよさそうだ。
(上掲書、350ページ。強調、下線は引用者による。)
表11−6には、上野千鶴子、江原由美子、大越愛子、沢地久枝、辛淑玉、鈴木裕子、深津純子、深見史、藤目ゆき、福島瑞穂、三木睦子、若桑みどり、山下英愛、秋田一恵(敬称略)の名前とそれぞれの発言が載っているが・・・
ジャーゴンなんて、どこにもまじってません。
何がしたかったのか秦先生のサッパリ意図がつかめない。も、もしかしたら、「予告どおりになった」って自画自賛したかっただけだったのか?
だいたい、「フェミニズムとは何ぞや」という文言もなく、「フェミニズムのここが問題だ!」とかいう指摘すらないので(この本のどこにもないんだな、これが・・・)、「女性は好きだけど、振り向いてくれないから嫌いだい!」って言ってるとしか思えないが・・・。
そんなことを思いながら節を最後まで読み進めていくと、あ、ありました。新テクニック!
これは「引用」?
中間派を自称するのは、たとえば在日朝鮮人の柳美里(作家)*1で、事実認識や法感覚は保守派*2に近いが、
「朝鮮人慰安婦問題は、他国の女性を慰安婦にしたという事実に尽きる」ので、「言いにくいのだが、この場合<推定有罪>とする方が、日本人にとって名誉を守る道につながるのではないか(16)」と説いている。
(16)『新潮45』 97年12月号の柳寄稿
(同書、354ページ、引用者が適宜改行を施した。強調および下線も引用者による。)
柳美里氏の『新潮45』の寄稿をまとめた『仮面の国』(2000年 新潮文庫)が本棚にあったので、引っ張り出して確かめてみた*3。以下、引用する。
(178ページ最初から引用開始)
ただ思い込みだけで読むとどうなるか
西尾幹二氏は、わたしの「つくる会」への批判を、(略)わからないまま『新潮45』(97年11月号)に反論を書かれたのだから論旨が不明瞭であるのも無理からぬことだ。西男氏に理解していただくために、また再反論にも必要なので整理して記す。
私の批判は次の通りである。
(一) 元朝鮮人慰安婦を、植民地下において強制連行された苛酷な労働を強いられた個人の代表として考えられないだろうか。
(ニ) 朝鮮人慰安婦問題は、他国の女性を慰安婦にしたという事実に尽きる。*4
(179ページ ぶっとばし)
(180ページ すっとばし)
(181ページ まだとばすか?)
(182ページ3行目からようやっと引用再開)
・・・様々な慰安婦のなかに強制連行されたと思い込むに足る状況証拠があったのだろう、と私は言っているのだ。「つくる会は」ショウコ、ショウコと連呼するが、歴史を語る上で最も大切なのは想像力だということを少しは考えた方がいい。
伝統的な武士道精神はどこへいったか
言いにくいのだが、この場合<推定有罪>とする方が、この国にとって名誉を守る道に繋がるのではないかと思っている。
(強調および下線は引用者による)
まるまる4ページ離れた2つの文を魔法の言葉「ので」でつないで引用完成!って・・・どんな文章も自由自在。
中学生の読書感想文レベル以下の離れ業。いとズルし
なお、柳美里氏の名誉のために、『仮面の国』より彼女の言を引いておく。
〔西尾〕氏は繰り返し朝鮮人慰安婦と日本人慰安婦、さらにアメリカ占領軍の要請でつくられた*5日本国内の慰安所の女性たちを同じ状況にあったと発言し、『十五年戦争』で慰安所の女性についてこう語っている。
「朝からものすごい数のアメリカ兵の相手をされられたのです。全国にそういう施設ができて、何も知らないで連れてこられた日本人の娘さんが腰をぬかしてオイオイ泣いていたという」
この日本人女性と同様に何も知らないで連れてこられた朝鮮人慰安婦が恥を忍んで名乗りでたというのに、彼女たちを嗤うとはいったいどういう神経をしているのであろうか。思想家を任じるなら歴史に想像力を働かせ、歴史の被害者に敬意をはらえとまでは言わないが、せめて労る気持ちを持つべきである。私は人間を理解しない思想家などに何の価値もないと思っている。オイオイ泣いた朝鮮人の娘さんに対して深い同情の念を持てないばかりか、恥を知らないと蔑むのでは、何のための歴史教育であり、何を日本のナショナル・アイデンティティの核にすると言うのであろうか。
(上掲書、184ページ。 強調は引用者による。)