ガダルカナルと慰安婦

(この記事は書きかけです)

・・・あるケースでは、慰安婦の乗せてラバウルから運命の島ガダルカナルへ向かっていた船がブーゲンビル島沖で潜水艦によって撃沈されたが、数名の慰安婦は運良く泳いで岸にたどり着くことができた。その中の2人は戦争*1を生き残った。


……On one occasion a ship carrying comfort women from Rabaul to the fateful island of Guadalcanal was sunk by a submarine off Bougainville, with a few fortunate comfort women being able to swim ashore. Two survived the war.

George Hicks ”The Comfort Women” (paperback), 1995, W. W. Norton & Company, p. 121


以前からこの件は気になっていたのですが、新しい情報がなくて探求できずにいたところ、dempaxさんから情報を教えていただきました。(当ブロク 2007年8月10日のエントリどくしょのじかん 10 コメント欄参照)

dempax 『金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 初版1976/01/31 2刷 1976/04/30) 「X 南方戦線の慰安所 *南方の慰安所の特異性」の最後にガダルカナルが出てきます.

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かくて無数の売春業者は,最前線の軍隊が溺れる直前まで,その私腹を肥やすべく”お国のため”の謳い文句を掲げて営業をたくらみ,朝鮮の娘を連れて,南方のさいはての島(ガダルカナル)へまで渡る算段を立てたのである. その一人,Sという男(福岡市在住)は1942年8月初め,ガダルカナルむけの軍隊慰安婦(朝鮮女20名,日本女6名)を引立てていた.【出典:金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 初版1976/01/31 2刷 1976/04/30)p.200】
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ちょうど、千田夏光従軍慰安婦<正扁>』(1978年、三一書房)が手に入ったの読んでみると、ありました。長文ですが、引用します。

 玉砕といえば、玉砕よりもっと悲惨な状態の戦場となった所にガダルカナル島がある。人間が生きながら死んでいった島である。その島の名は戦史に興味のない方も”餓えの島””餓島”として耳にされたはずである。

  (中略)

 ところが、この島へも慰安婦を送る計画があったのである。
 前にも書いたように、この時期の慰安婦は軍直轄でもなく軍扱いでもなかった。言ってみれば軍属でもないのに軍属扱いと黙認された業者が、軍隊から食事の配給をうけつつ、慰安婦を引きつれ”御用”をつとめていた。そしてガ島に慰安婦をつれて行こうとしたのも、その”御用”をつとめる男の一人であった。私はその慰安婦をつれ”餓島”に行こうとした人物を数カ月がかりで探したところ、なんと、あの昭和12年暮れ、上海戦線へ”慰安婦第一陣”を集めて連れて行った男T氏なのであった*2。まさに”事実は小説より奇なり”だ。彼の”御用”をつとめる歩兵第124連隊こそ、ガ島戦の初期に急遽そこへ派遣された部隊だったのである。

  (中略)


・・・彼との話はなぜか一問一答形式にしたほうが味が出てくる。
 「昭和13年から昭和17年まで、ずうっと慰安婦の担当をされていたのですか?」
 「ええ、まあそういうことです。」
 「やはりはじめから終りまで軍属にもならずにおられた?」
 「はあ」
 「ガダルカナル島がどんな島であるかはご存じだったのですか? もっとも慰安婦をつれて行こうとされたくらいだから、或る程度の下調査はされていたのでしょうけれど・・・・・」
 「私が行こうとしたのは昭和17年8月末でしたから、まだ餓死などということは考えませんでした。それに兵隊は、”アメリカが奪った海軍の飛行場を奪いかえしに行くのだ、戦闘が終わったらのんびり警備生活さ”などと言っていたので、それを信じていました。」
 「でもガ島の記録を見ていくと8月7日にアメリカ海兵師団1個師団が上陸、これを奪いかえしに8月19日逆上陸した一木支隊900人は21日に全滅、軍旗奉焼、あなた方の連隊はその後に上陸作戦へと動いたが、すでに制空権はアメリカのものでさんたんたる状況となっていたはずですね」
 「戦場というのはどこでもそんなものですし、中国大陸でも私は戦闘の終わったその夜、ただちに店を女たちに開かせてきたから・・・・・」
 「ガ島でもそれを考えたのですね?」
 「そういうことです」
 「慰安婦というか、女性は何人連れていこうとしたのですか?」
 「はっきり憶えていませんが、確か6人か8人を先発させようとして私が引率して船に乗り込みました」
 「その船は軍の輸送船ですね?」
 「もちろんです。それ以外に船などあるはずがありません」
 「とうぜん完全武装の兵隊、弾薬といっしょ?(引用者柱:そのときの写真と思われるものがdempaxさんの『国立でむぱ研究室櫻分室』、2007年5月3日のエントリ 『日本の戦歴』、『未公開写真に見る日中戦争』にあり)」
 「そうです。兵隊も女も目の色が変わっていました。それまでの大陸戦線とは様子がいささか違っていました。アメリカ軍の手強さと空襲のおそろしさがわかって来ていたのだと思います。出発前から、空襲警報が鳴りづめでしたから」
 「出発の場所は?」  
 「ラバウルです。ああそうだ。女たちは後続の補給用輸送船にのせ、私だけ駆逐艦ブーゲンビル島の、なんと言ったか、そうだプカです。そのプカまで行き、さらに舟艇で行く部隊と同行したのです」
 「つまり単身先行されたわけですね?」
 「先にガダルカナル島へ上陸し、そこで慰安所を作る場所を選定してもらい、営業用の小屋を作っておこうと思ったからです。そうしておかないと女たちが着いてもすぐ商売をさせられないからです。大陸でもたいていそうしていました。まだ弾がヒュンヒュン飛んでる中を歩兵部隊と一緒に行ったものです」
 「そのあなた自身が無事、ガ島へ着いたのはいつですか?」
 「日日(ルビ、ひにち)はもう憶えていませんが、124連隊上陸の日と同じということです。途中で虻(ルビ、あぶ)のようにブンブン空襲され、上陸して3日後にはもう食糧は無くなるわ、補給は来ないわで死ぬかと思いました。いや本当にです。熱帯というのは果物がふさふさなっていて手あたりしだいだ、と考えていたら大きな間違いでした。兵隊たちはみるみる顔が土色から青黒くなる。もちろん私も同じです」
 「慰安婦たちを乗せた輸送船はどうなったのです?」
 「それがラバウルを出てガ島に向かう途中で空襲にあい、船は沈没・・・・・」
 「彼女らは?」
 「体ひとつでブーゲンビル島へひろいあげて貰ったそうです。もう少しガ島の方へ進んでいたら全員水死だったでしょうが、沈められた場所がよかったのでした。その点は運がよかったのでしょう」

  (中略)

 「とても慰安所を開くどころじゃありませんね?」
 「そうなんです」
 「あきらめましたか?」
 「いやまだ補給部隊が来たり、女が来たりしたらやるつもりでした」
 「すると、女性たちが船を沈められ、ブーゲンビル島に体ひとつで上陸していたことを、あなたは知らなかったのですね?」
 「知りませんでした」

  (中略)

 「ではガ島に慰安所を設ける計画はそのまま消滅?」
 「いやまだあきらめませんでしたが、なにせ、駆逐艦で深夜こっそりドラム罐につめた米を運ぶのがやっと、という事態になっていましたから、事実上は無理でした。本当はあきらめていたのです。ただブーゲンビル島にいる女たちのことが心配でした」


 ともかく、これでガダルカナル島慰安所を開こうとする計画は駄目になってしまったのだった。もしも彼女らを乗せた輸送船が空襲で沈められなかったら、あの2万人の兵隊が餓死をした島に慰安所が開かれたことだけは確かであった。そうなったら悲惨な島にいまひとつ、悲惨なエピソードが加わったはずであった。
 だが、この話にはまだ余話がある。ブーゲンビル島に上陸を余儀なくされた慰安婦のその後である。同島はガ島戦終了後、アメリカ軍の攻撃をうけ、生き残ったひとつかみの守備隊が密林の中へもぐりこみ、飢えのため骨と皮になり、人肉事件までおこす生活をすることになっていったのだが、彼女らのそこのでの生活もまた同じであった。そしてその死の生活をくぐりぬけて2人が生還したのである。


千田夏光従軍慰安婦<正扁>』(1978年、三一書房)、140−147ページ


(とりあえずここまで。続きは早急に追加します)

(追記)

 その生還した2人の慰安婦について、ここでもまた”事実は小説より奇なり”の繰り返しになるが、実は、このブーゲンビル島の彼女らの生き残りに、これも初めに名の出た麻生徹男軍医が敗戦後ラバウルでめぐりあったのである。
  (中略)
 麻生軍医大尉が、ブーゲンビル島からラバウルに来たその慰安婦に会ったのは、俘虜収容のさいだったという。敗戦後、ラバウルには濠州軍が進駐して来て降伏調印しだい武器接収をはじめたが、麻生軍医大尉は英語に堪能だったところから、通訳兼交渉委員を命じられた。このため濠州軍の日本軍俘虜の人定尋問から、接収武器の点検まで日本側代表員として立ち会うことになった。
 問題の場面は昭和20年晩夏、ブーゲンビル島の密林にひそんでいた日本軍生存者を、濠州軍が日本送還のため、ひとまずラバウルに連れてきて俘虜収容所に入れたときだったという。麻生軍医大尉は、濠州上陸用舟艇からおりてきた、骸骨のようなブーゲンビル島生存者を、濠軍将校とひとりひとりチェックしていたとき、彼女らに出会った。


千田夏光従軍慰安婦<正扁>』(1978年、三一書房)、147および150ページ

従軍慰安婦 (〔正〕) (講談社文庫)

従軍慰安婦 (〔正〕) (講談社文庫)

従軍慰安婦・慶子―死線をさまよった女の証言

従軍慰安婦・慶子―死線をさまよった女の証言

*1:ブーゲンビル島ガダルカナル島と同じく飢餓の島だった

*2:この経緯は別のエントリーに書く予定